今年もたくさんの新しい本と出会い、様々な刺激をもらってきた。だが今年読んだ本の中で、最も印象に残ったものを挙げよと言われれば、それは「再会」した一冊になる。それが本書『消された一家 北九州・連続監禁殺人事件』だ。
事件の詳細に関する記述はあまりにも凄惨で、この本が置いてある本棚の一角は邪気が漂っているように感じるほどである。数年前に奥の方へと封印したはずのこの本を再び手に取ったのは、偶然目にしたドキュメンタリー番組がきっかけであった。
北九州・連続監禁殺人事件はきわめて複雑な事件であるものの、松永太という天才殺人鬼が全ての元凶である。内縁の妻とされる緒方純子は、加害者でもあり被害者でもあった。松永は緒方の家族ら7人を同じ部屋に監禁し、食事の制限、睡眠の制限、排泄の制限、そして通電による制裁を加えた。その後一家は、家族ら自身の手によって次々と殺害。しかも遺体はバラバラに解体され、人知れず捨てられたという。
この事件における最大の特徴は、松永自身が一切自らの手を汚していないという点にある。彼は取り調べの供述調書において、人生のポリシーを以下のように語った。
私はこれまでに起こったことは全て、他人のせいにしてきました。私自身は手を下さないのです。なぜなら、決断をすると責任を取らされます。仮に計画がうまくいっても、成功というのは長続きするものではありません。私の人生のポリシーに、「自分が責任を取らされる」というのはないのです。
ならばなぜ、家族同士が勝手に殺し合うという異常な事態が生み出されたのか? それは松永が監禁した家族をランク付けし、最下位のものにひときわ強烈な虐待を加えたためである。気まぐれにランクを入れ替えることによって、皆が松永の歓心を買うようになっていき、それが家族同士の不信感を生み出し、やがて殺害へと発展していった。
さらに、これだけ大量の人間を死んでいるにもかかわらず、遺体がないという点も特筆すべきことだ。遺体の解体作業に関する松永の発言は、虫唾が走る。
私の解体方法はオリジナルです。魚料理の本を読んで応用し、つくだ煮を作る要領でやりました
どんな凄惨な事件について書かれたものであっても、ノンフィクションとして纏められた作品には、何かしらの救いを求めて読む人が多いだろう。ただ後味の悪さだけが残るようでは、あまりにも空疎だ。
『消された一家』の場合、DVによる支配構造という特異な状況に理解を示すこと、そして刑務所に入ったあとの緒方純子の心の変化に、著者は僅かな救いを求めている。しかし、それが救いにならないどころか、だからこそ葛藤を感じる別の視点が存在することに改めて気付かされたのが今年の出来事であった。
松永と緒方が逮捕された時、別のアパートにいた二人の息子が保護された。長男は当事9歳。そしてあれから15年がたち、その長男がドキュメンタリー番組へ出演したのである。それが『ザ・ノンフィクション 人殺しの息子と呼ばれて…』だ。
記憶を辿りながらも、しっかりとした口調で語られる息子のその後の人生は、まさに戦いの日々であった。被害者でありながら、加害者の家族でもあるという事実が、彼に数多の十字架を背負わせる。児童養護施設で育てられ、高校時代はガソリンスタンドで働きながら定時制高校へ。その後、里親の家から家出をしてからは、住所不定の生活が続いていく。
今日、明日どう生きるのかという悩みを持ちながら、かつて自分の背中に包丁を突き立てた時の母の表情、死体を解体する時の臭い、そういった記憶の蓄積からも彼は逃れることができない。
後に息子は、父親、母親どちらの元へも面会に赴くようになる。特に印象的なのが、母親とのやり取りだ。まず嬉しそうな顔をする→どうしているかを聞く→最後は決まって説教をする。毎度のように3つのパターンが繰り返され、そのたびに彼は「今さら、母親づらするなよ。」と感じたそうだ。ある時など「私が死ねばいい?」と言われ、「苦しんで生きろ」と返したこともあったという。
松永の手によって、過去を奪われた母と未来を奪われた息子。母は息子に未来を見て、息子は母に過去を見る。だから一事が万事、話は噛み合わない。ズレを感じながらも何度も母親に会いに行くのは、自分の過去に折り合いをつけなくては、未来を切り拓くことに確信が持てないからなのだろう。
殺人事件というものの理不尽さ、それを背負いながら生きることで見えてくる世の中の不条理。そういったものにやるせなさを感じながらも、一歩ずつ未来へ歩もうとする息子の背中に僅かながらも救いを感じることができ、この番組を見て本当に良かったと心から思えたのだ。