ゴルフのラウンドをする度に痛感するのが、脱力することの難しさである。ただ脱力すれば良いということであれば話は簡単だ。しかし少しでも遠くへ飛ばしたいという欲望を充足させながら、力を抜いていくという行為は案外難しい。
その点、ゼロからトースターを作ったことでも知られる本書の著書トーマス・トウェイツは、明確な目標へ向かいながら全力で脱力するということに関して、稀有な能力を持っている人物だ。
今回彼が挑戦するのは、人間をお休みしてヤギになるということ。ちなみに本書は、文庫版で全271ページである。そのうち実際ヤギになって暮らすパートは、最後の55ページほど。全体の約80%の分量が、人間を休むとはどういうことか、ヤギになるとはどういうことかを考察しながらの、準備段階に割かれている。
これだけ事前準備に精力を注いでいれば、スタートする頃には疲労感も手伝って、おのずと脱力されることだろう。いわゆるパワーの逃がし方が上手いというヤツだ。さらに彼の魅力は、準備段階における問いの立て方の絶妙さ、それを解くにあたってのルール設定の巧みさにも現れる。
そもそも、動物になろうと思ったきっかけからしてスゴい。当時33歳の彼は、悩んでいた。仕事もパッとしないため、毎日がめっちゃホリデー。安定的な収入もないため銀行の口座開設も断られ、彼女にはそっぽを向かれる。この状況を受け、彼の思考は以下のように展開した。
人間特有の悩みっていうのを、数週間だけ消しちゃうって楽しそうじゃない?
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人間をお休みしちゃうってどうだろう?
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少しの間、動物になれたら、すごくない?
たとえ現実逃避や他力本願の方向であったとしても、とことん真剣に向き合えば深い洞察が生まれるものだ。彼はまずシャーマンに会って、自分の熱き思いをぶつけてみる。シャーマンからのアドバイスは、驚くべきことにヤギになれというものであった。ここから全てが始まる。
まず彼が向かったのは、バターカップと呼ばれる虐待されたヤギのための保護施設。ここで彼は、ヤギ行動学のエキスパートからプロジェクトの運命を左右する衝撃の事実を聞かされる。なんとヤギはストレスを感じることができ、しかもストレスを感じている時は鳴き声も変化させるというのだ。
このままではヤギになったとしても、本来の目的を達成することは出来ないーーそう悟った彼は、ここから人間特有の思考とは何かということへ傾倒していく、それは、過去や未来といった時間軸を移動させながらシナリオを生み出せるという能力にあった。
要は、心の中で時間旅行できるという能力が、我々人間を知性溢れる策略家にしてくれるものの、同時に悩ませ、そして後悔させることにもつながっているのだ。ヤギならば、我々のように「これから一体何が起きるのだろう」などと未来に対する不安を感じることはない。
ならばシンプルに時間の感覚を切ってしまえばいいのでないかと結論付けることも驚きなのだが、そこから言語神経科学の研究者のところへ直行することも想定外である。経頭蓋磁気刺激(TMS)というプロセスを使い、一時的に脳仮想病変を引き起こし、シナリオを想像する部分と言語を使う部分に影響を与えることを試みるのだ。
続いて彼は、プロトタイプの製作へ着手する。自分自身だけでは上手く行かず、獣医科専門大学の「構造と運動」に関する研究者に相談してみる。そこで教わったポイントは、体重の60%を前脚に、40%を後ろ足にかけるということ。
前脚を強くするために、空洞の繊維ガラスの骨を前腕に挿入してみたり、細長い中手骨の代わりにアルミ管をつけてみたり。徐々に、脚と蹄の完成へ近づいていく。
最後に取り掛かったのが、内臓の領域である。ヤギは多くの種類の植物を食べるが、セルロースとリグニンを消化する酵素を作り出すことができないため、4つも胃がある。そのうえヤギが草を食べ、第一胃の中の微生物が草を分解し、ヤギは微生物の制作物を消化するという複雑な仕組みになっている。
このサイクルを自身に取り入れるために、噛んだ草を胴体に縛り付けた「第一胃」で保管し、吐き出した草を後から「水蒸気爆砕処理と酸加水分解」で調理するという解決策を編み出す。これにて準備は完了。
まとめると、彼は「悩むことから解放される」というテーマを以下のように再定義したのだ。
・人間の500万年の進化を元に戻し、二足歩行から四速歩行に適応する外骨格を製作すること
・草を食べて消化できるような人工胃腸を開発すること。
・経頭蓋磁気刺激を使って、脳内の将来計画と言語中枢のスイッチを切って、動物の視点から人生を体験すること。
そして、いよいよ彼はヤギ農場へと舞い降りる。はたして、その運命はいかに?
サイエンスの叡智を結集しても未だ解明されえぬ「知性」や「心」といった題材に、アートという技芸のみで果敢に挑んでいく。その姿は真剣な表情であればあるほど面白いし、他人とは力の入れどころを変えることで、深い洞察を得ながらもエンタテイメントの域に昇華させている。その手腕の見事さには、誰が読んでも拍手喝采したくなることだろう。
(※画像提供:新潮社)