10年ほどまえ、京都の某ホテルのロビーで、わりといいスーツを着た人品いやしからぬ感じのおじさまと、真夏でもないのに下着みたいなワンピースを着た20代前半のきれいな女の子を見かけた。
おじさまは女の子をロビーのソファに座らせ、自分はフロントでチェックインの手つづきをしている。私がなぜ、その2人の動向に注目していたかというと、女の子の顔から表情がごっそり抜け落ちていたからだ。
親子でも親戚でも出張に来た上司と部下でもないよな。2人の関係は、もはや明白だよな。ものすごくもやもやした。よっぽど、「あれ、ミサちゃん(咄嗟の仮名)? やだ、ひさしぶりー」と、女の子の知りあいのふりをして声をかけてみようかと思った。そうすればおじさまが退散するかもしれないし。でも、余計なお世話かなという気がして、実行には移さなかった。
私はそのまま夕飯を食べに出かけ、4時間後ぐらいにホテルまで戻ってきた。すると偶然にも、あの女の子が一人でホテルから出てきたところだった。私たちはホテルのまえの横断歩道ですれちがう形になった。私は横目で女の子の様子をうかがった。そして、深く衝撃を受けた。
彼女の目は、なんの感情も光も宿していなかった。つや消しした、黒。一番近いと思うのは、飢餓に苦しみながら死んでいく幼い子どもの目だ。ハエがとまってももう振り払う力もなく、ただぽっかりと目を開けて横たわっている子どもたち。ユニセフのポスターとかテレビの映像とかで見た、絶望という言葉すら超えてしまったようなあの目をして、女の子は歩いていた。
若くてきれいな女の子が、こんな目をして歩いている。人間に、こんな目をさせる行いをしたおっさんがいる。その事実を突きつけられて、衝撃を受けたのである。
どうすればよかったんだろう、といまでも半年に一度ぐらい、思い出す。ロビーで声をかけてみるべきだったのか、そんなのはやっぱり私の自己満足にすぎないのか。答えは出ない。でも、女の子のあの目を見て以降、現代の売春に関する本をちょくちょく読むようになった。女の子の目を思い出すたび、「あの人品いやしいおっさんのチン○が、寝相の影響かなんかである朝もげてますように」と渾身の力で祈ってもいる。
荻上チキさんの『彼女たちの売春』は、風俗店などには所属せず、フリーランスで働く女性たちのルポだ。荻上さんは、出会い喫茶や出会い系サイトやテレクラで実際にアポを取り、多数の「ワリキリ」女性にインタビューやアンケートを行った。しかも、東京や大阪といった大都市だけでなく、全国規模で。
その結果、本書には、女性たちの個々の肉声と、地域ごとの価格差や売春形態の微妙なちがいも含めた膨大なデータとが収められることになった。大変な労力がかかっただろうと、頭の下がる思いがするし、読者としては知りたかった情報を手にすることができて、とてもありがたい。
荻上さんが本書で述べているとおり、「個人問題を社会問題化」するためには、的確なデータに基づく思考、対策の検討が必要だ。しかし、そのデータは無味乾燥なものではダメで、ではどんな「個人問題」が存在しているのか、多様な事情をちゃんと把握、反映したうえで作成されたものでなければならない。本書はその両面を見事に踏まえているので、「『さまざまな事情から困っているひとたち』を、私たちの社会はどうやって支えていけばいいか」を、具体的に考えたり、想像をめぐらしたりするときの、たしかな土台になってくれる。
個人的には、「体を売るなんて、とんでもない行いだ」とは思わない。需要があるところに供給が生じるのは当然で、より多く発注されるよう工夫したり、臨機応変に営業活動をしたりするのも、当然のことだ。どんな職業とも変わりのない、「金を稼ぐ」ための活動である。
ただ問題は、売春をしている女性たちが、本当にその仕事をしたいのか? というところだと思う。京都で見た女の子は、「自発的に、意欲や希望を持って、あるいはそこまで前向きじゃなくても、『働くってこういうもんだよな』と納得して」仕事をしているようには、どうしても思えなかった。
勤めている会社がブラック企業だったら、転職先を探すとか、公的機関や友人や家族に助けを求めるとか、なんらかのアクションを起こそうとするだろう。もちろん、その気力も失われるほど追いこまれてしまうこともあり、だからこそブラック企業や長時間労働がより深刻な社会問題となっているわけだが、それと同様に、どこにも助けを求められないほど追いつめられた(のであろう)あの女の子のような女性たちのことは、なぜ、なかなか社会問題化しないのか。
「売春をするようになったのは、個人の責任だ」という言説は、明確に誤りだと、本書を読んで私は思った。本書に登場する女性たちの多くが、家族や恋人からDVを受けていたり、教育の機会が与えられていなかったり、精神的な疾患を抱えていたりする。その根幹に、「貧困」の問題が横たわっているケースが多いのは、,一目瞭然だ。
もし、個々人の適性と希望に沿う教育を受けることができ、金銭的・身体的・精神的に困窮しているときには、漏れなく適切なケアを受けられるような制度が機能していれば、心身ともに相当にハードな売春という仕事に就くことを選ばなかった女性も多いはずだ。また、さまざまな事情から積極的に売春を職業に選んだとしても、「そろそろ辞めたいな」というときに、転職活動にもっと自由かつ即座に踏みだせるのではないだろうか。
自由に職業を選択できるというのは、当然の権利であり、それが貧困や生育環境や教育機会の不平等や病によって妨げられるのであれば、当然ながら問題は、個人の資質や能力ではなく、社会の構造のほうにある。「自己の努力と責任でなんとかしろ」と言うのなら、我々はなんのために社会を形成し、税金を払っているのだろう。困っているひとを支えるため、社会がはらむ問題を少しずつでも解決し、より多くのひとにとって少しでも住みやすい社会に変えていくためではないのか?
本書に登場する女性たちの声は、(現状に倦んでいるひとであっても)生き生きとし、ときとしてユーモアと批判精神を迸らせる。それぞれの人格、それぞれの事情が伝わってくるとともに、共通する社会の問題に幼少のころから直面せざるをえなかったことも見えてきて、なんだか途方に暮れる思いもする。これもう個人の力じゃ、事態を打開しようがないのでは……。
いや、途方に暮れている場合ではない。厳然と存在する、貧困、暴力、教育機会の不平等。これらを直視し、当事者に責任を押しつけるのではなく、社会の問題として改善、解決していくほかないのだ。
荻上さんも取材を通して、きっと無力感を覚えたり、途方に暮れたりすることもあっただろうと推察する。でも、荻上さんは決して絶望したり、激高したりはしない。あくまでも冷静に淡々と、けれど当事者に寄り添って、彼女たちの声を集め、データを示してくださった。今度は我々読者が、それを受け止め、自分たちの問題として考え、想像し、行動する番だ。本書は、「特殊な職業」に就いている女性たちのルポではない。私たちの社会が抱える、労働や教育や暴力や貧困の問題についての報告なのだ。社会を構成するひとのなかで、いま困っているひとが確実にいるのだから、同じ社会を構成する一人一人が、協力して考え、想像し、行動し、支えあうのが当然だろう。
それにしても不思議なのは、本書に登場する女性たちのほとんどが、「気持ち悪い」「お金出してまでしたいの?」と思っているにもかかわらず(そしてそれは当然、相手にも伝わっているはずなのに)、それでも女性を買う男たちの根性(というか内面)だ。京都で女の子を買ったおっさんを見たときにも、憤激が湧くとともに、底知れぬおそろしさを感じた。「おまえ、相手の女性にあんな目をさせといて、よく性欲抱けるな」と。
本書には、買春をする男性のデータも、出会い喫茶を思いついた男性のインタビューも載っている(後者に関しては、「なるほど!」と志の高さと発想力に感服した)。データを見れば見るほど、買春をする男性たちの個々の内面、事情についても知りたくなってくる。
女性たちが「気持ち悪い」と思っているとき、男性たちはなにを思っているのか? 彼らが女を買うのは、「男は性欲が強いから」が理由なのか?(どうもそれだけとは思えないのだが……) 彼らの女性観、生育環境などに迫ったインタビューやアンケートも、ぜひ読んでみたい。「なぜ売春しているのか」と同様に、「なぜ買春しているのか」を男性側が言語化することによって、もしかしたらそこにも、なんらかの社会問題(女性差別や、社会が男性に過剰なプレッシャーをかけている、など)が存在することが明らかになってくるかもしれない。
そういうインタビューなども、当然すでにあるのかもしれないが、荻上さん、ぜひお願いします! だれかを,無闇に断罪することなく、真摯に相手の話に耳を傾け、生き生きと肉声を伝えてくださる手腕、そしてそれらを的確なデータとして提示してくださる手腕を、信頼しているので! 京都で見たあのおっさんも、荻上さんが聞き手だったら、自分の思いや考えを話してくれるんじゃあるまいか。ま、女の子にあんな目をさせといて平然としてるやつなんだとしたら、聞いても聞いても、内面は「無」かもしれんがな。チン○もげろ(←私はすぐこういうこと思っちゃうから、親身かつ公正なインタビューとか客観的データ分析とかができないのだな……)。
本書に登場する女性たち、思わず噴きだしてしまう日記の書き手であるナナちゃん、そして京都で見た女の子は、いまどうしているのかなと思う。希望する職に就いて、あるいは暴力を振るったりしないパートナーとめぐりあって、楽しく暮らしているといいのだが。いや、現実にはたぶん、厳しい局面もあるだろう。ぼんやり願うだけでは無責任だ。
理想論かもしれないけれど、理想がなければ決して事態は好転しない。この社会で暮らすひと全員が、排除されることなく、貧困や暴力や教育の機会格差を味わわずに生きていけるよう、考え、行動する。あせらず、絶望せず、そういう社会の実現を目指して模索し、まえに進んでいく。本書を読んで、それが肝心なのだということを知った。読者のみなさまも、きっと同じ思いでおられることだろう。
2017年9月 三浦 しをん(作家)