弱者の気持ちを知っている人が、公器としてのペンを持っている社会は安心だ。本書の著者は、中日新聞の記者である。過労からうつ病になり、復職後に両親の介護をかかえ、パーキンソン病の進行を薬でおさえながら勤務を続ける「わけあり記者」だ。本書では、「ここまで書いてしまって良いのか」と思うほど克明に、事の次第を綴っている。心を動かされない人は、まずいないだろう。
熟達した記者の文章なので、一気に読める。しかし、執筆には相当の時間がかかったものと思われる。なにせ著者はパーキンソン病で、現在は右手の指一本で原稿を打っているのだから。一冊の本をまとめるには、相当に強い意志の力が必要だったはずだ。果たしてそれは、どんな思いだったのだろう。本書のエピローグには、「世のわけあり人材よ胸を張れ」とある。
「わけあり人材」とは、人生の経験値が高い人のことではあるまいか。職場においても組織においても、最も大切な「気付き」をもたらす宝ではないのか。「わけあり」とは人生を制約する鎖に見えて、実は多くの人を励ます翼になり得るのではないか。~本書より
この思いが、著者を支えたのだ。まず、「一つ目のわけあり」からみていきたい。著者は、うつ病を生み出す社会の病巣のひとつは、古いキャリア形成の仕組みのうえで地位を築いてきた“クラッシャー上司”の存在にあるとみている。他のうつ病体験記では、職場に波風を立てることを恐れて書けないところまで、一歩踏み込んだ記述をしている。
自身のFacebookに残っていた記述をもとにまとめられているので、非常にナマナマしい。本書は、このなかで“攻撃”している当時の上司に一言断ったうえで書かれたそうだ。そんなリスクを負ってまで生傷をさらしたのは、いま悩んでいる人の力になりたいという切実な思いなのだと思う。この病気になった自分にしか伝えられないことを書きたい、という強烈な記者魂なのだろう。
本書に登場する“クラッシャー上司”が発する言葉は、本当に退屈で、聞くに耐えないものばかりだ。きっと読者の皆様も共感されることだろう。『クラッシャー上司』というタイトルの本が売れたように、著者の指摘には説得力がある。もし自分が同じ立場に置かれるようなことがあれば、本書にあるような言葉は柳に風と受け流し、あるいは止揚し、自らの価値観でダイバーシティを生き抜きたいと思った。
次に「二つ目のわけあり」の気付きは何か。両親の介護を通じて気づいたことは、いくつも書かれている。例えば、介護で必要なのは「まずお金、次に情報、そして技術」だということ。愛情だけで何とかしようとすることは危険だという。「始めから白旗を揚げればよい」というのは、最初からプロの力を借りたほうが良いということだ。現在、新聞連載中の「生活部記者の両親ダブル介護」の一部も掲載されていて、読み応えがある。
最後に「三つ目のわけあり」。パーキンソン病である。発症が昨年ということもあって、この点に関する記述は少ない。ただ、「もう飛騨の匠にはなれない」「スイスの時計職人にはなれない」といった奥様との会話が掲載されていて、冗談で跳ね返そうとする力強さを私は感じた。介護をかかえながらの闘病によって、これから多くの気付きが連載に反映されてくるだろう。
これだけ色々な苦難があると、ほとんどの人は戦意喪失、離職してしまうものだろう。実際に著者は、夢を諦めて去っていく同僚の背中を幾度も見てきたそうだ。だから、「うつ」や「介護」や「闘病」を乗り越えている現役の記者など、ほとんど稀有な存在に違いない。そんな著者には、特別な役割があるような気がしてならない。
そのような目で新聞を見ると、「介護はこんなに大変だ」という悲惨な記事ばかりだ。制度や手続きを紹介する記事もあるが、「これも足りない」「あれもできない」という不満に落とし込んでいる。~本書より
「今日は上手にご飯を食べられた」など、現実の介護には楽しい部分もある。別の箇所には、「とくとくと政局の見通しを語り、政治家とのコネを自慢する記者」への反感も綴られている。花形の政治記者だった著者は、過労で倒れたことで出世は諦めたそうだ。もう、予定調和の記事を書いて、弱者を傷つける必要はないのだ。私は、この著者の優しいペンの力に期待したい。
▲ドイツ特派員時代のメルケル首相と著者
1970年生まれの水瓶座は、私と同学年。母親も私と同い年(現在81歳?)だ。さらに、私も母親の介護を抱えつつ、職場の制度を活用して働いている「わけあり人材」である。先ほど書いたように本書には人を攻撃する部分もあったが、大部分は優しい気持ちになれるものだった。私がいつも感じている職場や周囲の人々からの温かいまなざしを、本書でも随所で感じたのだ。
今後日本には「わけあり人材」が溢れる。これから求められるのは、「離職者を出さない温かい職場」ではないか。「わけなし人材」に長時間労働を強いていた時代に比べれば、コストは大幅に増大する。しかし、「わけあり人材」を排除するマイナスのほうが、圧倒的に大きい時代になるのだ。果たして、このことをクラッシャー上司たちは理解できるのだろうか。
自らの病気をかかえながら、両親の介護をする著者。二人の幼子を育てながら、母親の介護をする私。先ほどは共通項をあげたが、私と著者の状況には大きな違いがある。今後、日本の企業には、大きな手間とコストをかけながら、社員それぞれの状況を把握し対応することが求められるようになるだろう。気になるのは、著者の今後である。
著者はいう。自分が記者として働ける年数は、おそらくあと10年だと。パーキンソン病は死の病ではないが、現代の医療では根治させる療法はなく、徐々に身体の自由がきかなくなるそうなのだ。「いつまで仕事ができるか」「いつまで親を介護できるか」という難問を常に抱えているという。背負っているものは、重い。
京都大学卒業後、新聞社に入社して政治部記者となり海外で特派員もつとめた華やかなキャリアを考えると、悔しい気持ちにもなるだろう。でも、著者も書いているように冷静にみれば、環境的には恵まれている。だから私は、本稿を書くに当たって、闇雲に苦難だけにスポットをあてたくはなかった。ただ私は、著者および全ての「わけあり記者」にむけて大声で伝えたいのである。他を蹴落としたエリート記者の声でなく、あなたの声をききたいのだと。
写真提供:著者より