どうやったら、我々人間は動物の感覚にもっと近づくことができるのだろう。たとえばアナクマのように巣穴で眠り、森を徘徊して獲物を物色する。たとえばカワウソのように水辺に住んで魚やザリガニを食べて生き、ツバメのように空を飛び、糞を撒き散らす。そうやって動物たちと同じように生きたら、彼らがみている世界を追体験できるのではないだろうか?
そんな、言っていることはわからないでもないが自分でやろうとは思わないことをまともにやってしまった狂人が、本書の著者であり、2016年のイグノーベル賞の生物学賞を受賞したチャールズ・フォスターである。狂人とは言い過ぎで、著者に対する敬意を欠いているのではないか? と思うかもしれないが、この記事を読み進めてもらえればその事実が把握いただけると思う。
人間とキツネなど他の動物たちとの間には境界があると著者はいう。それは当然だ。我々はキツネと子どもを作ることはできないし、カワウソを学校に通わせることはできない。しかし、著者はその境界は”曖昧だ”といってのける(そうとは思えないが……)『種の境界というものは、錯覚とまでは言えないにしてもたしかに曖昧で、ときには穴だらけでもある。進化生物学者やシャーマンに尋ねてみればわかる。』────この時点ですでに相当おかしいが、著者は、その曖昧な境界という概念を証明してみせようと言わんばかりに、そこを乗り越えようとしてみせる。
そこで、単純にできる限り境界の近くまで進み、手に入るあらゆる手段を用いて、向こう側を覗くという方法をとることにした。これは、単にじっと見るというのとは根本的に違うプロセスになる。(……)「タカは、感覚受容器からの入力を脳で処理し、それを遺伝的遺産と自分だけの経験に照らして解釈することで、どんな世界を構築しているのか?」というその疑問が、私の関心の的になっている。
感覚受容器がうんちゃらかんちゃらと大層なことを言っているが、要は「動物になって生きてみよう」ということである。著者は本書の中で、アナグマ、キツネ、カワウソ、アカシカ、アマツバメになりきって生きようとし、その視点からみた景色を描いてみせる。僕は正直言って、最初「そうはいうても、どうせ四足歩行で一週間過ごしてみたり、一泊二日ぐらいで山の中で過ごしたりするだけでしょ」とナメていたのだが、この「生きてみた」の徹底ぶりが尋常ではない。
動物になって生きてみた
たとえばアナグマとして生きる章では、まず巣穴を本格的に掘り始めるところからはじめ、何日(少なくとも一週間ではない)もそこで泊まり込み、ミミズを生で食い、四つん這いのまま川まで下り、ペロペロと水を舐める。雨が降っても家に戻らず、川や地面に落ちていて食べれそうなものは何でも食っている。カタバミ、野ニラ、道路でぺちゃんこになっていたリス……
今、私たちのベッドは地面のなかにあった。来る日も来る日も地面から這い出し、いつでも地面の近くにいたいとおもった。四本の足で森を這って歩いたって、バカバカしい見せかけにすぎないだろうとおもっていたのに、今では四本の足で歩かないことが鼻もちならない傲慢さに思えた。それだけではない。そうしなければ、どれだけのものを見逃してしまうかがわかりはじめていた。うしろ足だけで立って歩くのは、劇場の特等席が用意されているのにテレビの画面で森をみているようなものだった。
真っ当な感想とは思えないがどこか納得させられてしまいそうな凄まじい”圧”のある文章だ。
著者はカワウソになりきった章では、ウェットスーツに身を包み毎日川にもぐって餌を探しながら日々を過ごす。スゴイのは一週間とかではなくて、冬から夏まで幾つもの季節を経てやりつづけることで、恐ろしいのは冬がきてからだ。カワウソは問題ないが、人間には水温が単純にキツイ。それでも著者は果敢に挑戦してみせる。だが、さすがに冬の川は無理だったようだ。『とどまろうとした。ほんとうにやってみた。でも実際は形だけの、そうするふりだった。』
さらに、キツネにもなってみせる。キツネはカワウソよりもまだマシなような気もするが、ある意味ではこっちのほうが過酷な生活といえるかもしれない。都会のキツネとして生きるために、著者はネズミを追って街を這いずり回る。『心配して近くに集まって来た不安げな人たちに、自分のことをとりとめもなく説明しようとする。警察官が到着する前に逃げ出す。』もちろん人間が四足歩行でネズミを捕まえられるはずなんてないから、常に失敗する。
私はこの方法を何時間も試した。ほとんど強迫観念に取りつかれていた。一度もかすったことさえなく、向上することもなかった。数百回跳んで、獲物が目に入った回数は約五回──偉そうに、嘲るように、コソコソ立ち去った。一匹などは実際に振り返った。誰もが、ハタネズミは解剖学的に見て冷笑などできないとおもっていたに違いない。
えぇ……
ありえないほど文章がうまい
本書にはこうした、読んでいて頭がおかしくなりそうなエピソードがテンコ盛りだが、それだけではない。地べたを這いずり回ることでしか得られないリアルな体験談は、文学から哲学者まで無数の視点を引用し、それがまったく嫌味ではない(ギャグになっている)語りを筆頭とした圧倒的な文章力で描き出されており、驚くほどクリアに”地べたからの視点”を伝えてくれる。
さらに、単に「生きてみた」だけではなく、そっくりの生活をするためにも各動物の生理学的な知見が随所に述べられており、そこを読むだけで各動物らがぐっと身近に感じられるようになる。キツネであれば、単なる野生のキツネの生態だけではなく”都会で”生きるキツネが直面する困難(その多くが車に跳ねられ、重症を負った状態で生きているなど)を教えてくれるのだ。
もしライオンが話せたとしても、ライオンの世界は人間の世界とは大きく異なっているから、私たちには何を言っているのかまったく理解できないだろうと言ったのは、ウィトゲンスタインだ。彼は間違っていた。彼は間違っていたと、私にはわかる。
果たして著者はどこまで動物たちとの境界をなくすことができるのだろうか? 本当に異なる種族の声を聞くことができるようになったのか? そのチャレンジを通してみえてくるのは各動物の特性だけではなく、”人間はどこまでやれるのか”という人間性そのものでもある。こんな変態はそうそう出てくるものではないし、その変態がこれほどまでにおもしろい文章を書く事は、もはやありえないといってもいい。ぜひ読んでこの奇跡を一緒に目の当たりにして欲しい。