本書を一言で表現するなら、「21世紀のユーザーズ・マニュアル」である。
本書の内容紹介に、「ビジネスの「ゲームのルール」の激変ぶりに、イノベーションの恐るべきペースの速さに、むち打ち症(whiplash)にならずついていくために不可欠な、『9の原理(ナイン・プリンシプルズ)』」と書かれているように、我々は、今、世界を動かすオペレーティングシステム(OS)が一新されるような大きな変化の時代を生きている。本書は、この新しい世界のOSについての強力なユーザーズ・マニュアルである。
但し、これは家電製品のマニュアルとは違い、技術的なものだけでなく思想的なものを含んでいるので、パラパラとページをめくりながら気楽に読む本ではないということは、最初にお断りしておく。
ここには、著者の伊藤穰一氏がMITメディアラボなどでの経験を通じて得た、人類の未来に対する数多くの知見と示唆が含まれており、本書を読んで、アーサー・C・クラークとスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』(2001: A Space Odyssey)を初めて見た時の、新しい世界を垣間見る感覚を思い出した。
それほど本書の内容は奥が深いため、アマゾンの書評欄では「内容が分かりにくい」という評価が散見され、それが翻訳者の山形浩生氏のせいになっているが、これは伊藤氏が信頼して翻訳を任せた山形氏の責任ではないと思う。
二人の信頼関係の深さについては、WIRED誌がアレンジした、ボストンとモンゴルをSkypeでつないだネット対談を見るとよく分かるので、参考にして頂きたい。
そこで先ず、これから本書を読む読者のために、先ず伊藤氏についておさらいしておきたい。伊藤氏については、NHKで放映しているスーパープレゼンテーション(TED)のファシリテーターでもあり、知っている人は多いと思うが、現在、MITメディアラボの所長を務めている。
MITメディア・ラボの何たるかについては、フランク・モス前所長の『MITメディアラボ―魔法のイノベーション・パワー』という著書があるので、詳しくはそちらを参照して頂きたいが、MIT内にある、表現とコミュニケーションに利用されるデジタル技術の教育、研究を専門とした研究所である。
伊藤氏は、2015年10月に開催されたメディアラボ設立30周年記念式典で、「科学とデザインを結びつけることが、メディアラボの未来だ」と語っている。それぞれ別の領域として長らく考えられてきた科学、デザイン、アート、工学という4つの分野は急速に変化しつつあり、これらの分野はもはや切り離して探求されるべきではなく、結び付けて考えなければならないというのだ。
伊藤氏は、メディアラボの方針として、「アンチ・ディシプリナリー(非学際的)」という言葉を掲げている。一般的に言われる「インター・ディシプリナリー(学際的)」な研究とは、様々な分野の専門家が共同で研究を行うことを指すが、アンチ・ディシプリナリーはそれとは異なり、既存のどの学問領域にも単純には当てはまらない場所で研究を行う、独自の言語や枠組み、手法を持つ独自の研究分野である。
こうしたメディアラボの研究資金の財源もユニークで、その殆どは民間企業から来ていて、企業スポンサーと共同研究を行う産学連携のモデルであり、日本からは、ソニー、パナソニック、NEC、NTT、日立、ホンダ、キヤノンなどの有力企業が名を連ねている。
伊藤氏については、その他、複数の大学を中退していたり、ベンチャー投資家であったり、DJであったり、ダイビングのインストラクターであったり、日本のインターネットの草分けであったりと、殆どフィクションなのではないかと思ってしまうような、ユニークかつ多彩な経歴の持ち主である。
2016年には、村上春樹氏や山中伸弥氏などと共に、アメリカのFTI Consulting社が選出する、世界中に思想面で大きな影響を与えるオピニオンリーダーである、”Thought Leader”(思想的リーダー)にも選ばれている。
また、テクノロジーがもたらす未来についての、米国版WIRED誌上でのオバマ大統領の対談相手にも指名されている。
こんなユニークなバックグラウンドの持ち主である伊藤氏が、我々はこれからの激変する世界にどう対応していけば良いのか、それを9つの原理(プリンシプル)にまとめたのが本書である。
本書は、次のように指摘する。「グーグルの共同創設者ラリー・ペイジが《ワイアード》誌に述べたように「[ほとんどの]企業がだんだん劣化するのは[かれらが]以前にやったのとだいたい同じことを、マイナーチェンジしただけで続けようとするからだ。絶対に失敗しないとわかっていることをやりたがるのは自然なことだ。でも漸進的な改善は、やがて陳腐化する。これは特に、確実に漸進的でない変化が起こるとわかっている技術分野ではそうだ。」
そして、現代の特徴は「非対称性」「複雑性」「不確実性」にあり、超高速の変革がデフォルト状態の世界で生き残るには、全く発想の異なる戦略が必須だとして、次の9つの原理を挙げている。
1. 「権威よりも創発(Emergence over authority)」
2. 「プッシュよりプル(Pull over push)」
3. 「地図よりコンパス(Compasses over maps)」
4. 「安全よりリスク(Risk over safety)」
5. 「従うよりも不服従(Disobedience over compliance)」
6. 「理論より実践(Practice over theory)」
7. 「能力より多様性(Diversity over ability)」
8. 「強さより回復力(Resilience over strength)」
9. 「モノよりシステム(Systems over objects)」
詳細は本文に譲るが、かつての生産プロセスは、特定の「権威」が主導していたのに対し、現在は、多くの人が関わることで生まれる「創発」が台頭してきている。これからの時代に求められるのは詳細な地図ではなく、方角を示してくれるコンパスであり、抽象的な思考は有用なコンパスのひとつである。低コストでイノベーションが起こせる世界では、安全よりもリスクをとるべきであるなど、ここには様々な指針が示されている。
ここで印象的だったのは、「言われた通りにしているだけでノーベル賞を受賞できた人はいない」し、「偉大な科学者の性質として最も過小評価されているものが、バカと思われても平気だということ」だという点である。
また、本書は次のように語っている。「成功への鍵はルールや、果ては戦略ではなく文化だ。道徳的な指針の話であれ、世界観の話であれ、感性や嗜好の話であれ、ぼくたちがこうしたコンパスをセットするのは自分たちが作り出した文化と、その文化をイベントやメールや会合やブログ投稿やルール作りや、果ては流す音楽を通じてどう伝えるかを通じてのことだ。それは、ミッションステートメントやスローガンよりは、むしろ神話体系のようなものだ。」
つまり、人間の発展におけるどんな時期も、共有される想定や信念の集合で特徴付けられるのであり、これらの原理は、ミッションステートメントやスローガンといったトップダウンの形ではなく、人々の間で神話体系のように伝えられるのでなければ、これからの新しい世界の扉を開くことはできないというのである。
本書を読んで、去る8月2日にソニーコンピューターサイエンス研究所で行われた、『知性の本質とは何か?』というシンポジウムを思い出した。ここでは、ヤフーCSOの安宅和人氏が、『知性とは何か、知覚とは何か』という講演を行い、それに続いて、『AI時代に問われるべき知性とは何か』というパネルディスカッションが行われた。
パネリストは、安宅氏に加えて、御立尚資氏 (ボストンコンサルティング グループ シニアパートナー)、石川善樹氏 (予防医学者)、北野宏明氏 (ソニーコンピュータサイエンス研究所所長)と超豪華布陣で、ファシリテーターは岩佐文夫氏 (DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー前編集長)が務めた。
このシンポジウムは最近参加した中でもずば抜けて面白かった。誰かが、「日本で最高峰の知性のジャムセッション」と言っていたが、プレゼンテーションの上手さや会場との一体感に加え、各パネリストの「アンチ・ディシプリナリー(非学際的)」色が半端でなかった。
そして何より印象的だったのは、パネリスト全員が、新しい未来に対して半端ではないワクワク感をもって臨んでいるように見えたことである。
来るべき変化に備えるのに最も良い方法は、それを傍観するのではなく、未来の創造に参加することである。そして、IT技術やソーシャルメディアの発展のおかげで、今、イノベーションのコストは格段に下がっており、人々が創発的な社会変革に参画できる機会が飛躍的に高まっている。
自分が面白いと思ったことに積極的に突っ込んで行き、自らの手で新しい未来を切り開く。我々は今、そうしたことが可能な時代にいるのである。
最後に、来るべき未来を読み解くために、『第四次産業革命 ダボス会議が予測する未来』『マッキンゼーが予測する未来―――近未来のビジネスは、4つの力に支配されている』も、本書と合わせて一読することをお勧めしたい。