昭和14年1月の深夜、霞が関の海軍省の地下の一角では、なにやら怪しげな実験が進行していた。「水からガソリン」をつくるというこの実証実験は、山本五十六海軍次官や「特攻の生みの親」ともいわれる大西瀧治郎大佐などの立会いのもと、三日三晩行われ、最終日に成功を収めた。
実験を行っていたのは「街の科学者」として名を馳せていた本多維富という初老の男だ。彼は稀代の詐欺師であった。
著者の山本一生は石油精製会社に勤務の後、近代史家となり、残された日記から時代を読み解く作品を発表している。阿川弘之『山本五十六』(新潮文庫)に書かれた「水からガソリン」事件に興味を持ち、独自の調査を続けてきた。
第一次資料となる文献は防衛省防衛研究所に眠っていた。「水ヲ主体トシ揮発油ヲ製造スルト称スル発明ノ実験ニ関スル顛末報告書」、作成者は大西瀧治郎その人だ。資料は存在しない、記憶にないと国会答弁する役人とは違い、軍人はきちんと己の責任で資料を残していたのだ。
この実験の1年半ほど前、支那事変が勃発する。この戦いで日本は世界初の航空隊による渡洋爆撃を行った。だが日本には優良な航空揮発油が決定的に不足していたうえ、オクタン価の高いガソリンの精製技術も大きく立ち遅れていた。最も重要な戦略物資である石油の9割は海外に頼るしかない。状況はまさに絶望的であった。
国内の油田開発も急ピッチで進められた。実際、明治期には小規模ながら油田が見つかっている。だが簡単に見つかるわけもなく、喉から手が出るほど石油の欲しい軍部は「水からガソリンを精製できる」という話を信じたかったのだ。
やみくもに信じたわけではなかったが、本多維富は一筋縄ではいかない詐欺師であった。過去にも「藁から真綿」を作り出す技術を開発したと騙り、東京帝国大学工学部教授を信じさせ、支援者を募り、裁判になった過去を持っていた。だが「できる」「できない」の証明は難しい。最終的には無罪となっている。
「水からガソリン」を作ることに関しても、技術を信じた製造会社の社長や技師、学者たちのお墨付きを得ていたが、このときは、以前インチキを見破った役人たちもいたのだ。
さて山本五十六の目の前で成功した「水からガソリン」は果たして本物だったのか?このペテン師はどうなったのか。日本の戦史の裏側を飾る茶番劇は、可笑しくももの悲しい物語であった。(週刊新潮8月3日号より転載)
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著者の前作。この本もとても面白かった。