マイケル・ルイスといえば『世紀の空売り』や『マネー・ボール』をはじめ、一攫千金の舞台裏をゲームのようなスリリングさで描く作家として記憶されている方も多いかもしれない。ところが本作は行動経済学がテーマ、しかもルーツとなった2人の心理学者の評伝形式になっている。
ここで一抹の不安を覚えた方には、予め声を大にして言っておきたい。「心配無用である」と。まるで、これまでの名作の数々が序章に過ぎなかったと思わせるような抜群の仕上がりである。
行動経済学という概念を生み出したダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキー。本書は2人の足跡を辿りながら、行動経済学という一つの学問が成立するまでのイノベーション、人間の行動のバイアスを次々と発見していくまでのサプライズ、そして絶妙なやり取りで天地をひっくり返していく痛快劇がこれでもかと繰り広げられる。
そもそもマイケル・ルイスが行動経済学に興味をもったきっかけは、大ヒット作『マネー・ボール』に寄せられた書評であったという。なぜ野球の専門家が選手を見誤るのか、それはイスラエル人心理学者の2人組によって何年も前に説明されているという指摘が入ったのだ。
この書評を書いたのは、『実践 行動経済学』などで知られる、リチャード・セイラーとキャス・サンスティーンのコンビであった。これだけ役者が揃いまくった状態では、『マネー・ボール』の心理学的側面が物語になっていくのも時間の問題であったというより他はないだろう。
それまで経済学理論が前提としていたのは、人が常に自分にとって最適な行動を選択するということであった。つまり、経済理論の行為者は合理的で利己的、そしてその好みは変わらないというものだ。しかし、選択を間違えて後悔をしている人のことを容易に思い出すことができることからも分かるように、人が選択をするときの思考にはバイアスがかかっているのが常だ。これを考慮に入れなくてよいのかということが、カーネマン&トヴェルスキーの根底にある投げかけである。
まさに経済学の中心的理論を根底から覆すような発見がイスラエルという国、そして心理学という分野から生まれてきたことは、注目に値する。多くの経済学者がそれまで研究していたのは、利益と利益の間の選択に過ぎないことが多かった。しかし彼らが育ってきた第二次世界大戦前後のイスラエルという環境は、悩み深い人間関係と同じように、不快な選択肢の中からどれかを選ばなければならないものばかりであったのだ。
ダニエル・カーネマンは、記憶を信じない人物であった。子供の頃にはホロコーストを経験し、成人してからも常に国家はあらゆる方面で問題を抱えていた。その環境は、彼の着眼に豊かな陰影を与えたはずである。
ヨーロッパでユダヤ人殲滅をもくろむ政党が権力の座についたとき、事態の深刻さを受け止めて逃亡したユダヤ人と、とどまって虐殺されたユダヤ人がいたのはなぜなのか? 戦争において、そして生死をかけた局面において、記憶のせいで正しく判断できないというシーンを日常のごとく目の当たりにしてきた。
一方エイモス・トヴェルスキーは徹底的な楽観主義で、明晰かつ論理的な頭脳を持っていた。社交的な彼は、常にどうすれば他人を動かせるかを考えていた。小さな商売をしているものが多かったユダヤ人コミュニティで成功するためには、人の性質を見抜く目をもっていることが生き抜くために必要な資質であったのだ。
知覚にまつわる人の瞳孔を研究していたダニエルと、類似性の判断や意思決定を研究してたエイモス。一方は現実世界の問題を扱いながら他人と距離を置こうとし、もう一方は抽象的な研究をしながら現実世界に深く関わろうとした。しかし、およそ気の合いそうもない二人の人生が急速に交わりだし、やがては頭脳を共有するほどの親密さへと変化していく。二人に共通していたのは、直感というものへの不信感であった。
人が判断をするときには、ヒューススティックという直感的判断を多用する。ヒューリスティックは簡便であって素早く結論を出すことができるが、バイアスを生む原因にもなること、そしてバイアスには規則性があることを、彼らはさまざまな実験で明らかにした。
必要以上にステレオタイプに囚われてしまい、基準率への注意が散漫になる「代表性ヒューリスティック」や、簡単に思い浮かべられる状況ほど、起こる頻度は高いと感じてしまう「利用可能性ヒューリスティック」、私達の日常は数多くの罠に囲まれているも同然なのである。
ならばなぜ、彼らはバイアスにとらわれず自由な思考を出来たのか? それはダニエルが人間の愚かさを直視することができたからである。彼は直感を知覚的なものと捉え、知覚と類比することによってバイアスの正体を可視化した。2人のやり取りでは、ダニエルがまず間違え、その間違いに気付き、なぜ間違えたかを理論化するというやり方で道を切り開いていったという。
ダニエルとエイモスの関係は、まるで編集者と作家のようなものであったと言えるだろう。経済学を心理学という外側から観察し、その気付きを現実の様々な課題に応用し、あらゆる世界の盲点をハッキングしていく様は実に爽快だ。
だが、永遠に続くかと思われた二人の関係も、やがて終焉を迎えていく。彼らが行動経済学の中で導いた法則と、2人の運命もどこかでシンクロしていく後半部分は、特に読み応えがある。
印象的な法則の中に、「人が意思決定を行うときは効用を最大にするのではなく、後悔を最小にしようとする」というもの。そして「人の頭は喪失に直面した時、それが起こらなかった世界を想像して乗り越えようとする」というものがあった。
後に2人の関係性も、喪失と後悔という2つの状況に直面することになる。彼ら自身の研究内容をもってすれば、最後の重要な局面において何が最適解なのかは分かっていたはずだ。それでも現実はそうならなかったところに、感情というものの複雑さが垣間見える。
本好きの人の中には、経済思想やそれを生み出した人物の評伝は好きだが、理論の方はちょっとという方も多いことだろう。その点、行動経済学は生み出された時代背景や思想だけでなく、理論そのものも示唆に富む内容が多い。理論が面白く、それを生み出した人物自体も面白く、書き手にも恵まれた一冊を読むことが、合理的な選択であることに疑いの余地はない。