1967年、銀座にひとつのクラブが誕生した。「数寄屋橋」という、銀座の象徴のような名のクラブを仕切るのは弱冠二十歳のママ、園田静香。熊本から上京し、奇跡のようにわずか3カ月で店を立ち上げた。思い込んだらひとすじなのは、熊本生まれで、女ながら肥後もっこすの血かもしれない。
月日は流れ「クラブ数寄屋橋」はこの春50周年を迎えた。今も変わらない美貌と人気の静香ママが、来し方行く末を見つめた交遊録を出版した。
『銀座の夜の神話たち』と題されたこの本には、夜な夜な楽しい時間を過ごした小説家や漫画家、画家、写真家、プロスポーツ選手とキラ星のようなスターたちの思い出が綴られている。ママが好きで、クラブ数寄屋橋の雰囲気が好きで通ってきた数々の名士たち。多分、こんなに多くの著名な人たちを見つめ続けてきた人は、この著者くらいしかいないかもしれない。
時代は高度成長期の真っただ中。巨人・大鵬・卵焼きが三大子どもの好きなものと言われ、霞が関ビルが竣工し、グループサウンズに熱狂したファンが失神していたその時代に、「文壇バー」として産声を上げたクラブ数寄屋橋の主な客は、やはり作家が多かった。
三島由紀夫、菊田一夫、司馬遼太郎、池波正太郎、井上靖といった歴史に名を残す人たちから、北方謙三、大沢在昌、林真理子、宮部みゆき、桐野夏生など現在、第一線で活躍する人気作家たちもこの店を訪れる。直木賞が発表された後、選考委員がこの店に集まるのは恒例で、受賞者は最初にママの笑顔で迎えられる。
瀬島隆三、白洲次郎、そして歴代総理大臣が12.5人(0.5人には意味がある)も訪れた店だと聞くと、どんなに豪華な店なのだろうと思いきや、バブが崩壊後、ビルが競売にかけられるまで入っていた店は、素朴で、膝と膝がくっつくくらいの狭さだったようだ。
だがその近さが好まれた。総理大臣も新人作家もお相撲さんも俳優さんも、裃(かみしも)脱いで若い女の子と語らえる、そんな夜の社交場だったのだ。
中でも手塚治虫はクラブ数寄屋橋をこよなく愛していたようだ。今では名物になっている年に2回の「祭り」には必ず参加し、ママの作詞した歌をアルバムにした「静一人」総合プロデュースを担当した。生前交わした「宇宙船に連れてってあげる」という約束は果たされなかったが、手塚治虫のボトルは今でもクラブ数寄屋橋に鎮座している。
2020年の東京オリンピック開催が決まり、外国人観光客が押し寄せて、銀座もまた活況を呈している。50年は一区切り。クラブ数寄屋橋も園田静香ママも、日本の文化の担い手を癒す場所として、いつまでも元気でいてほしいと切に願う。 (小説すばる7月号より転載)