事件ノンフィクションと呼ばれるジャンルの醍醐味が、存分に味わえる一冊だ。この事件の何に対して自分が釈然としない思いを抱いていたのか、その正体が嫌というほど見えてくる。その実像は、事件当時に見知っていた情報とは大きく異なる印象があった。
PC遠隔操作事件とは、2012年6月から9月にかけて14件もの殺害・爆破予告がなされた事件である。JAL便の爆破予告から、小学校の襲撃予告、はたまた有名子役や人気タレントグループ襲撃予告までとターゲットは幅広く、世間を震撼させた。
逮捕されたのは、IT関連会社社員で当時30歳の片山祐輔という一人の青年であった。本書では、事件発生からの全過程を克明に記録し、事件の中からあぶり出された課題を、今あらためて検証しようと試みている。
本書のスタンスが特徴的なのは、この事件が本当にこれほど騒がれるようなものであったのかという点から出発しているところだ。結局一連の殺害・爆破予告において、実行に移された犯行は一つもない。見方を変えれば、この事件は非常に質の悪い悪戯であったと言っても過言ではないのだ。
それを前代未聞の複雑な大事件へと変貌していったのは、いくつかのターニングポイントにおいて、警察、メディア、社会による小さなボタンの掛け違いが毎度のように起こってしまったからである。そういった意味で、これはネットというアンコントーラブルな増幅装置の影響を抜きにしては、語りえない事件であった。
片山が最初に罪を犯したのは、横浜CSRF事件と呼ばれる一件である。CSRFを使って第三者のパソコンを踏み台にし、横浜市のホームページの投稿コーナーへ書き込みを行う。そこには横浜市内の小学校を襲撃し、児童を大量に殺害するという予告文が書かれていた。
本来それほど高度なセキュリティ知識がなくても実行できるこの犯罪において、警察が誤認逮捕という失態を犯してしまったことが運命の変わり始めである。予想を遥かに超えた成功を収めたことで、片山は遠隔操作を使った殺害予告がもたらす高揚感に味をしめてしまい、次の事件を誘発してしまう。一方で、警察がこの段階で遠隔操作に気付いていれば、事件は人知れず収束していた可能性も否めない。
片山は他人のパソコンを遠隔操作して次々に新たな殺害予告の書き込みを行い、警察もさらなる誤認逮捕を引き起こしてしまう。まさに警察自身の手によって、この事件はただの愉快犯では済まされない、深刻かつ重大な事件に変わってしまったのだ。
しかし犯人である片山にとって、また捜査を行う警察にとって、何が成功で何が成功でなかったのかは、事件をどのようなスパンで見るかによって、大きく異なってくる。それが本事件の最大の特徴であり、ノンフィクションとして読み応えのあるポイントでもある。
もちろん事件当時の片山は、さらに調子づいた。「犯行声明メール」「自殺予告メール」「謹賀新年メール」「延長戦メール」と合計4通も、警察を挑発するようなメールを送り込んでいく。事件の鍵となる部分をクイズ形式で伝え、マスコミにも公開するという手の込んだシナリオは、世間を賑わすには十分であった。
通常の犯罪捜査では、強制捜査権という特殊な権限が警察を情報優位な状況に保ってくれる。しかし、警察が持っているのと同じ情報が既にネット上に溢れてしまえば話は別だ。情報の非対称性という最大の強みを消しこむような作戦に警察は翻弄されるが、逆にそれが彼の逮捕へ踏み切らせていく。警察にはメンツという名の感情がうごめき、さらに片山の内偵をメディアに察知されたことも手伝って、見切りでの逮捕に走ってしまうのだ。
一時的には保釈されるものの、それがさらに次の事件へとつながり、結果的に片山の逮捕は正しかったことが証明されていく。警察、メディア、犯人、その誰もが踊らされながら帳尻だけが合ってしまったことは幸運だったのか、不運だったのか。
いかに片山に元凶があるとはいえ誤認逮捕を生み出したのは警察であり、ネット固有の言葉を文脈を無視して抜き出し社会を騒がせたのはメディアである。しかし後の裁判においては、そういった警察の失態やメディアでの影響による部分も片山の量刑に課せられた印象を受けた。これは本事件において、最も見過ごしてはならない点と言えるだろう。
それにしても気になるのは、一体なぜ片山がこのような事件を引き起こしたのかという動機の部分である。驚くべきことに、この動機の中に片山逮捕までの道筋は内包されていた。
人付き合いが下手で、仕事上でもスランプに陥っていた片山が、リアル社会での不全感をネットを通じて世間を騒がせることの万能感で埋め合わせをしていたことは想像に難くない。しかし自分の方が一枚上手だとに思っているだけでは満足できず、それをみんなに知ってもらう必要もあった。この捻れた欲望こそが、片山の犯罪における特殊性である。
片山には捕まりたくないという気持ちと同時に、自分の存在や犯人が実は自分であることを知ってほしいという相矛盾する2つの気持ちが共存していた可能性が高かったという。つまり自己顕示欲があったからこそ事件は起こり、自己顕示欲があったから捕まってしまったというわけだ。これを皮肉と言わずして、何と言うべきか。
しかし著者が一番問題視しているのは、マスコミの報道姿勢だ。特に事件記者と警察の近すぎる関係から、未確認のリーク情報が流されるケースは多く、それが捜査に大きな影響を与えてしまうことも多分にあるのだという。
著者は行き過ぎた推定有罪報道が今回の事件に与えた影響にも警鐘を鳴らしつつ、本来あるべき報道の姿勢を、本書での筆致を通して実証してみせたとも言えるだろう。
たしかに犯人として捕まったのは片山祐輔ただ一人である。しかしこの事件の加害者は、無数に存在する。誤認逮捕を引き起こした警察もそうなら、リーク報道に便乗したメディアも同様だ。社会全体によって作り出された共創型の加害が事件をより大きなものに変えていったことは、しっかり記憶に留めておきたい。
事件が風化してしまう前に顛末を振り返ることの意味を、深く噛みしめられる一冊に仕上がっている。