保育園に子どもを迎えに行っていた頃、保育士が毎日のように子どもがこしらえたすり傷やたんこぶなどについて懇切丁寧に説明するのに面食らった。
「すべり台を降りた瞬間にお友だちとぶつかって……」、「ボールを追いかけていて転んで……」といった具合。こちらは田舎の野山を駆けずり回って育ったくちだ。子どもなんてケガするのが普通と呑気に構えていたものだから戸惑いを覚えてしまったのだ。
だがある時、それには理由があるのだと保育士経験のあるママ友が教えてくれた。ひとつはちょっとしたケガにもクレームをつける親(いわゆるモンペ)がいるから。予想外だったのはもうひとつの理由。間違っても保育士の虐待なんかでできた傷ではありませんよ、ということをアピールしているというのである。そんな可能性を毛ほども考えたことがなかったので、これにはびっくりした。
英国在住20年余、保育士をしながら英国社会の矛盾を鋭く突いたコラムなどを発表しているブレイディみかこの『子どもたちの階級闘争』を読みながら、そんな昔のことを思い出した。本書で描かれる英国社会の格差と分断の情景はショッキングなものだ。
著者は2008年に保育の現場に飛び込んだ。彼女が「底辺託児所」と呼ぶそこは、平均収入や失業率、疾病率などが全国最悪水準の地区にある託児所で、緊急を要する家庭や、失業者、低所得者の子どもたちを無料で預かっていた。彼女は2年半ほどボランティアとして働いた後、ちゃんと給料がもらえる民間の保育園に転職をした。
だが、この保育園は、保育士の虐待の噂が広まったあげくつぶれてしまう。
ミドルクラスの子どもたちが通うその保育園には、熱心な保育士がいた。だが母親たちはこの保育士を露骨に無視する。なぜなら彼女は元「チャヴ」だったからだ。チャヴというのは公営住宅地などにたむろするガラの悪い若者たちのこと。英国の荒廃ぶりが語られる際にきまって引き合いに出されるような存在だ。
英国では言葉づかいであからさまに出自がわかってしまう。元チャヴであることを隠しようもなかった保育士は、母親たちに無視されたあげく、やがて「子どもを虐待しているのではないか」と噂を立てられてしまう。
実際には転んだりした子どものもとへいち早く駆け寄って手当てしていたのが彼女だった。それだけ子どもにとっては身近な存在だったのだが、母親たちは、ケガした場面で必ずといっていいほど彼女の名前が出てくることから、短絡的に(かつ意図的に)虐待と結びつけてしまったのである。
その結果、あろうことか彼女は逮捕されてしまう。後に裁判で無実が証明されるものの、保育園は風評被害で潰れてしまうのだ。
英国では近年、「ソーシャル・アパルトヘイト」という言葉がひろまっているという。著者が働いていた保育園でも、母親たちは唯一の外国人保育士だった著者には優しく振る舞うくせに、元チャヴの保育士のことは差別していた。「外国人を差別するのはPC(ポリティカル・コレクトネス)に反するが、チャヴは差別しても自国民なのでレイシズムではない」というわけだ。
この手のソーシャル・アパルトヘイトは、大人だけにとどまらない。英国でも保育施設が全国的に不足しているが、その理由は、ミドルクラスの子どもたちと貧しい子どもたちを同じ施設で保育することを拒否する保育園が増えているからだという。ミドルクラスの親からすれば、高い保育料を払っているのに、国の補助で子どもを通わせる貧困家庭の子どもと同じに扱われてはたまらないということらしい。
このような排除によって行き場のなくなった貧しい子どもたちを受け入れていたのが、著者がかつて働いていた「底辺託児所」だった。だがひさしぶりに舞い戻ってみると、そこは保守党政権が進める緊縮財政の煽りを受けて、とんでもない状態になっていた。週に3日、しかも午前中しか運営できない「緊縮託児所」へと変貌していたのである。
本書で細やかに描かれる「緊縮託児所」での日常は、ほんとうにショッキングだ。胸を突かれるような場面も多い。それはまるでディケンズの『オリバー・ツイスト』に出てくる孤児院のようだ。英国はヴィクトリア朝時代に戻ってしまったのか。
英国が階級社会であることは知られている。労働者階級の「落ちこぼれ」の少年たちが辿る人生を分析した社会学の名著『ハマータウンの野郎ども』ポール・ウィリス(ちくま学芸文庫)が明らかにしたのは、彼らが社会に反抗しながらも、既存の社会体制を再生産してしまう逆説的なメカニズムだった。だがその一方で、彼らには居場所があった。この本の原題が“Learning to Labour”であるように、学校では落ちこぼれても、働き方を学び、やがて労働者の大人に仲間入りしていくというルートはあったのだ。
だが、現代のアンダークラスは、昔ながらのワーキングクラスの「落ちこぼれ」とはまったく別のものだ。就業せずに生活保護に頼って生活する彼らは、労働者階級にも当てはまらない、既存の階級のさらに「下」に位置する新しい階層である。そのきっかけとなったのはサッチャーだ。
80年代のサッチャー政権による構造改革によって多くの労働者たちが失業し、90年代には人気取りのブレア政権が彼らへの生活保護を手厚くした。そのせいで、最底辺のアンダークラスの間でモラルが崩壊し、さまざまな社会問題を引き起こしているとして、保守党は「ブロークン・ブリテン」と危機感を煽り、政権に返り咲いた。
著者は英国に住んで初めてサッチャーの犯した罪が何だったのかわかったという。それは、「経済の転換によって犠牲になる人々を敗者という名の無職者にし、金だけ与えて国蓄として飼い続けたこと」なのだ。
時の政権が打ち出した政策が、いのいちばんに影響を及ぼすのは社会の底辺だ。そんな底辺で起きている小さな変化を、著者は驚くべき肌感覚の鋭さでつかまえる。
ミドルクラスの保育園で働いているとき、著者は子どもたちの手先が、底辺託児所の子どもたちより発達していることに気がつく。格差は子どもたちの知能の発達にも影響を及ぼしているのだ。あるいは親にひどく怒鳴られ、からだを硬直させて声を出さずに泣く女の子を前にして、著者はこういう泣き方をする子は底辺の託児所に多いことに気づく。そして抱き上げた女の子の体がひどく軽いことにも。
ここには、自らが体験したことを手掛かりにして生み出された言葉がある。ひとたびネットをみれば、「ネトウヨ」だとか「サヨク」だとか、相手のレッテル貼りに忙しい人たちを多く見かけるが、著者の言葉は、そういうものとはもっとも遠いところにある。自分がいま立っているその足元から発せられる言葉。いま私たちが獲得すべきなのは、こういう言葉なのではないか。