なにげなく眺める英語圏のエンタテインメント情報サイトやファッション雑誌の見出しに、「フェミニスト」の文字がよく目につくようになったのは、いつ頃だったろう。日本と比較すれば昔からずっとそうだったとも言えるけれど、2010年代、特にここ数年は、若い世代の女性に向けたメディアで、それこそ「いけてる子は全員フェミニスト」ぐらいの勢いを感じる。
もちろんこれは日本在住の、そうした話題に関心のある一個人の観測範囲での話だから、偏っているに決まっている。とはいえ、たとえばセールスや受賞歴など数字の上でも今日のポップ・ ミュージックの世界に君臨する「女王」ビヨンセは、2014年のMTVビデオ・ミュージック・ アワードのパフォーマンスで巨大な「フェミニスト」の文字を背に立ち、その後も女性を祝福する作品を発表し続けている。国連ウィメン(ジェンダー平等と女性のエンパワーメントのための国連機関)は、『ハリー・ポッター』シリーズでおなじみの女優エマ・ワトソンを親善大使に任命し、意識向上のためのキャンペーンを展開している。こうした誰もが認める大スターたちがフェミニストとして堂々と発言し、性差別解消のためにさまざまなプロジェクトに参加しているのだ。
そしてインターネットでは、こうした動きに対して市井の人々が賛同や批判の声をあげ、さかんに意見を交換する様を確認することができる。もちろん、有名人や施政者や大企業より先に、自らすすんで問題提起を行い、解決策を考え、お互いに励まし合って行動している人々がたくさんいることも、昔からしたら噓みたいに簡単に知ることができるのだ。2010年代のフェミニズムへの熱い注目は、メディア環境の変化と性差別問題への理解の広がりを示しているのと同時に、いまだに課題が山積みで男女平等にはほど遠い現実の厳しさの証左でもある。
ロクサーヌ・ゲイは、こうした状況のもとで頭角をあらわし、支持を集めてきた書き手だ。彼女は新聞、雑誌、オンライン・マガジンなどに寄稿するのに加え、個人BlogやTwitterでも積極的に発言してきた。2007年に開設されたTwitterのアカウントのフォロワー数は、2016年12月現在で15万8000人。アメリカ合衆国で生まれ育ったハイチ系の黒人女性であり、田舎の大学教員という立場にある「私」の個人的な視点から、性差別に人種差別、容貌差別、経済格差、地域格差、宗教右派の台頭と異文化への不寛容など、さまざまな問題が交差するアメリカの現実を描き出してみせる。ときにはテレビのリアリティ番組やティーン向けの俗っぽい小説や映画などの「うしろめたい愉しみ」の魅力を楽しげに分析し、自身のトラウマ的な体験も赤裸々に語る。彼女がさまざまな媒体に書いてきた記事をまとめたエッセイ集『バッド・フェミニスト』は、 2014年夏に刊行されるなり大評判を呼んだ。
ポップカルチャーへの愛情と社会批評とパーソナルな告白が混ざり合う本書を読み終えたかたは、彼女についてもうすでにたくさんのことをご存じだろう。ここでは日本の読者に向けて、『バッド・フェミニスト』以前と以後の彼女について少し紹介しておく。
ロクサーヌは1974年生まれ。大学に籍を置きつつ、2000年代前半から小説や詩などのフィクション作品とノンフィクションの論考やエッセイの両方を、さまざまな雑誌やアンソロジーに寄稿してきた。2006年にはM・バートレー・シーゲルと共同で文芸誌「PANK」を創刊。 2010年には女性どうしの性愛を扱うアンソロジー『ガール・クラッシュ:女性のエロティック・ファンタジー』を編纂している。同年、「タイニー・ハードコア・プレス」というスモール・ プレス(小出版プロジェクト)を立ち上げ、他の作家の小さな本を何冊か出版した。
彼女の最初の本、短編集『アイチ(Ayiti)』は、2011年にアーティスティカリー・デクラインド・プレスより刊行されている。タイトルはハイチ語で言う「ハイチ」だ。2014年にはハーパー社から『バッド・フェミニスト』、グローヴ・アトランティック社から長編小説『アンテイムド・ステイト』が出版され、大きな注目を集めた。2015年にはTEDカンファレンスに招かれて講演を行った。このときの動画はネットで公開され、現在では日本語を含む29の言語の字幕がつけられて、英語のメディアに馴染みのない人々が彼女のメッセージに触れるきっかけとなっている。
ロクサーヌの快進撃は止まらない。2016年春の報道によれば、『アンテイムド・ステイト』は映画化が決定されているそうだ。監督はジーナ・プリンス= バイスウッド(『リリィ、はちみつ色の秘密』)、主演はググ・バサ= ロウ(『ベル ある伯爵令嬢の恋』)。ロクサーヌは監督と共同で脚本を手掛ける。『バッド・フェミニスト』収録の一篇で語っている、「いつか世界一ハンサムな主演俳優にエスコートされてオスカーを手にする」という「恥ずかしい夢」に一歩近づいた。
また、最近では詩人ヨナ・ハーヴェイと共同で、コミックの原作にも挑戦している。スパイダーマンやアイアンマンなどで知られるマーベル社は、近年、時代の要請に応じて多様性を取り入れる努力を進めており、1966年に初の黒人スーパーヒーローとして世に送り出されたブラックパンサーをフィーチャーした新たなシリーズを立ち上げた。この『ブラックパンサー』では、アメリカで黒人として生きることについて息子への書簡の形式で綴った『世界と僕のあいだに』で脚光を浴びたタナハシ・コーツが原作者として抜擢され、すでに大ヒットを記録している。ロクサーヌが参加しているのは、これに連動する作品『ブラックパンサー:ワールド・オブ・ワカンダ』。クィアの黒人女性キャラクター、アヨとアネカが活躍する物語で、同社が黒人女性作家を起用したのは史上初だそうだ。
2017年には短編小説を集めた『ディフィカルト・ウィメン』と、食べものと体重、ボディ・イメージの問題を扱った2冊目のエッセイ集『ハンガー』の刊行が予定されている。折しもアメリカでは8年にわたるバラク・オバマ大統領の時代が終わり、ドナルド・トランプの共和党政権のもと、女性や有色人種、マイノリティの権利がさまざまな場面で侵されることになるのではないかとの憂慮が広がっているところ。インディアナ州ウエストラファイエットのパデュー大学で教育に携わりながら執筆活動に励むロクサーヌには、クリエイターとしても論客としても、とてつもなく大きな期待とプレッシャーがかけられているのだ。
現代アメリカ社会に鋭く斬り込むロクサーヌの文章は、文化的背景を共有していないと理解しづらい部分もあるだろう。「ああ言われているけれど、私はこう思う」という話を追うとき、まず 「ああ」の内容が耳慣れなかった場合、一度に脳内で処理すべき情報が多すぎて面食らってしまうかもしれない。だがそれはつまり他者を知る貴重な機会だということ。あっさりとは飲み込めない部分も含めて楽しんでいただける翻訳ができていれば良いのだが。
そもそも本書のタイトルであり主幹となるコンセプト「バッド・フェミニスト」からして、平易で力強い表現だからこそ日本語に置きかえるのは難しい。「バッド」は「グッド」の反対で、悪い、落第、不良、ダメなど、広く否定的な評価をあらわす言葉だ。しかし逆に「かっこいい」、「いかした」など、肯定的な意味で使われる場合もある。それこそ日本語の「ヤバい」のように。ここではカタカナの「バッド」を採用したが、自虐と開き直りと虚勢と誇り、その他いろいろが綯い交ぜになった意味の広がりを感じ取っていただければありがたい。
この日本版では、原書に収録されていた3篇が省略されている。「私について」の章より、ロクサーヌが文字を組み合わせて単語を作る能力を競うボードゲーム「スクラブル」に思いがけず熱中することになった経緯と、その真剣なプレイヤーたちのコミュニティについて綴った「引っ搔き、爪を立て、まさぐる。ぶざまに、あるいは熱狂的に」。「ジェンダーとセクシュアリティ」の章より、10代の頃に減量キャンプに参加した体験を振り返りつつ肥満問題を扱った小説を評する「カタルシスを求めて 正しく(あるいは間違って)太ること、そしてダイアナ・スペキュラー『スキニー』について」と、ソーントン・ダイアルのアート作品を参照しつつハッピーエンドについて考察した「田園詩のなめらかな表層」。これらも何かの機会に紹介できればと思う。
自分に多少うしろ暗いところがあったとしても、黙っていたら何もはじまらない。完璧な人間なんていないし、全員に好かれようなんて無理。だから自分の感じていること、考えていることを伝え、助け合える仲間を作っていこうと呼びかけるロクサーヌ。主語を大きくすることなく、あくまでも「私」の視点から個人と社会を結びつけて語るやりかたの例として、本書が声を出しかねている人々にとっての良い刺激となり、新しい何かが生まれてくることを、訳者として願い、楽しみにしている。