本書の帯に、「英タイムズも絶賛!22ヵ国刊行の世界的ベストセラー、ついに日本に上陸!」とあるので、その言葉に釣られて買ってみたが、確かにその通りの素晴らしい内容だった。
『失敗の科学』というタイトルからは、直ちに「失敗学」を連想する。これは、『失敗学のすすめ』 で有名な東京大学の畑村洋太郎名誉教授が提唱した新しい学問分野で、起きてしまった失敗に対し、責任追及のみに終始するのではなく、物理的・個人的な直接原因と背景的・組織的な根幹原因を併せて究明しようとする、安全工学に経営学などの要素を加味したものである。
しかしながら、本書はこうした失敗の工学的メカニズムを明らかにするだけでなく、更に「人間が失敗から学んで進化を遂げるメカニズム」に焦点を当て、我々が進化を遂げて成功に至るカギは、「失敗とどう向き合うか」にあることを明らかにしている。
本書では、まず航空業界と医学界という二つの業界を取り上げ、今なお医療過誤が繰り返される医学界に対して、航空業界における安全管理がいかに進化してきたかを明らかにしている。
元々、飛行機の黎明期である1912年の時点では、米陸軍パイロットの5割以上が航空事故で命を落としており、巨大な鉄の塊が高速で空を飛ぶという本質的に危険なことをする限り、事故が起きるのは特別異常なことだとは考えられていなかった。
これが今日では飛躍的に改善し、国際航空運送協会(IATA)によれば、2013年には延べ3,640万の民間機が30億人の乗客を乗せて飛んだが、そのうち事故で亡くなったのは210人だったという。欧米で製造されたジェット機の事故率はフライト100万回につきわずか0.41回で、単純計算すると約240万フライトに1回の割合になる。
これに対して、米医学研究所の調査レポートによれば、アメリカでは毎年4.4~9.8万人が、本来は回避可能であった医療過誤によって死亡しており、また、別の医療ジャーナルによると、この数は年間40万人以上に上ると推計されている。
こうした医学界の現状について、ジョンズホプキンス大学のプロノボスト教授は、2014年の米上院公聴会で、「ボーイング747が毎日2機、事故を起こしているようなものです。あるいは、2カ月に1回『9.11事件』が起こっているのに等しい」と発言している。
人は誰でも、自分の失敗を認めるのは難しい。ほんの些細な日常の失敗でさえそうだから、仕事上のことで、例えば長年経験を積んで高い地位に昇りつめた医師が医療過誤のケースで失敗を認めるなどは、もう別次元の難しさになる。
それではなぜ、同じプロフェッショナルである航空業界のパイロットは、ニアミスなどの自分のミスに対して正直に向き合うことができるのかだが、それは失敗がパイロットを非難するきっかけではなく、パイロットを含む全ての関係当事者にとって貴重な学習のチャンスととらえられているからだという。
それも最初から航空業界がそうした文化だった訳では決してなく、ベテラン機長と航空機関士の間の上下関係からくるコミュニケーション不足を原因とする、1978年のユナイテッド航空173便墜落事故が大きなきっかけとなり、そこからパイロットはニアミスを起こしても10日以内に報告書を提出すれば処罰されないなど、失敗の情報を共有化してそれを次の失敗発生を防ぐための仕組み作りに転化することができたのだという。
本書には、トム・ハンクス主演の『ハドソン川の奇跡』の題材になった、奇跡的な生還劇として知られるUSエアウェイズ1549便不時着水事故も出てくる。この映画の主人公であるサレンバーガー機長は、とっさの判断で乗客の命を救ったことで称賛されたが、この事故が2009年ではなく、1978年のユナイテッド航空173便墜落事故以前に起きていたら、サレンバーガー機長はこれほどうまく危機を回避できなかっただろうとしている。
事実、同機長はテレビ番組のインタビューで次のように述べている。
我々が身に付けたすべての航空知識、すべてのルール、すべての操作技術は、どこかで誰かが命を落としたために学ぶことができたものばかりです。・・・これらの教訓を忘れて一から学び直すのは、人道的に許されることではないのです。
多くの場合、人はミスを起こした際に自分に都合の悪い事実を突き付けられると、自分の過ちを認めるよりも事実の解釈の方を変えてしまう。次から次へと都合のいい言い訳をして自分を正当化していき、矛盾が大き過ぎて自分の心の中で収拾がつかなくなると、遂には事実を完全に無視したり、忘れたりしてしまう。そして、そうした傾向は、今の地位を築くのに多大な努力をした、自尊心が強く、失うものが大きいエリートほど強いと言う。
これは、企業経営にも当てはまる。ダートマス大学のフィンケルシュタイン教授は、著書『名経営者が、なぜ失敗するのか?』の中で、致命的な失敗を犯した50社強の企業を調査した結果、組織の上層部に行けば行くほど、失敗を認めなくなることを明らかにしている。
そして、本書では、企業が失敗を単なる失敗に終わらせず、次につなげる形で活かせるかどうかは、以下の二点に集約されると指摘している。ひとつは学習チャンスを最大限に活かすシステム作りであり、もうひとつが現場のスタッフからのキチンとした情報提供である。実際に何が起こったかを理解する前に、魔女狩りで「犯人」を吊し上げればひとまずの満足は得られるかも知れない。しかし、もし失敗が、全て分かりやすい「犯人捜し」にしかつながらないのであれば、誰も自分の失敗の情報など人に話そうとしなくなるのである。
「非難や懲罰には規律を正す効果がある」という考え方が、企業の管理職の間で広く浸透している。しかし、ビジネス現場におけるミスは、単なる不注意からではなく、複雑な要因から生まれることが多い。その場合に罰則を強化したところでミスそのものを減らすことはできず、ミスの報告を減らしてしまうだけに過ぎない。非難すればするほどミスは深く埋もれていき、隠蔽体質は強化されてしまうのである。
本書は、こうした失敗のメカニズムの解明に、今、経営学的に最も注目されている”GRIT”(やり抜く力)という視点を織り込み、なぜ人や組織が成長するためには失敗が必要不可欠なのか、そしてその失敗を積極的に活かせる人や組織とそうでない組織との間にはどういった違いがあるのかも究明している。
ミシガン州立大学の心理学者モーザーによれば、自分の知性や才能は生まれ持ったものでほぼ変えることはできないと捉えている「固定型マインドセット(fixed mindset)」のグループと、知性や才能は根気よく努力を続ければ自分の資質を更に高めて成長できると信じている「成長型マインドセット(growth mindset)」のグループを比べると、後者の方が、「失敗に着目してそこから学ぼうとする反応」が遥かに強いという。
この失敗から学べる人と学べない人の本質的な違いは、失敗の受け止め方の違いにある。成長型マインドセットの人は失敗を自分の力を伸ばす上で欠かせないものとしてごく自然に受け止めるのに対して、固定型マインドセットの人は、生まれつき才能や知性に恵まれた人が成功すると考えており、失敗を「自分に才能がない証拠」と受け止めてしまう。
そして、これは企業にも当てはまると言う。固定型マインドセットが組織文化になった企業で働く社員は、ミスや非難を恐れる傾向があり、社内ではミスが報告されないことが多く、これに対して、成長型マインドセットの企業ではミスに対する反応がはるかに健全で、誠実で協力的な組織文化が浸透しているというのである。今巷を騒がせている一連の伝統的な大企業や予定調和型の官僚組織などは、典型的な固定型マインドセットの組織と言えるのではないだろうか。
歴史学者によれば、ほぼどんな人間社会にも、神話・宗教・迷信などの形で独自の世界観が存在し、それに異を唱えるものには死の制裁が下されてきた。フィリップとアクセルロッドの共著『戦争百科事典(Encyclopedia of Wars)』によれば、人類史上起こった123の紛争や戦争が、宗教的・思想的・教義的な意見の相違に起因していると言う。
科学哲学者カール・ポパーは、これに対して、批判が許容されるという画期的な変化が最初に起きたのが古代ギリシア時代であり、これが言語の誕生以来、人類に知的進歩をもたらした最も重要な瞬間だとして、次のように語っている。
科学の歴史は、人類のあらゆる思想の歴史と同様、失敗(中略)の歴史である・・・しかし科学は、失敗が徹底的に論じられ、さらにそのほとんどは修正されてしかるべきときに修正される、数少ない ―おそらくはたったひとつの― 人間活動だ。だからこそ、科学は失敗から学ぶ学問だと言えるのであり、その賢明な行動によって進歩がもたらされるのである。・・・真の無知とは、知識の欠如ではない。学習の拒絶である。
更に、哲学者のブライアン・マギーは、ポパーの反証主義(反証可能性を持つ仮説のみが科学的な仮説だとする考え方)を取り上げ、次のように述べている。
自分の考えや行動が間違っていると指摘されるほどありがたいものはない。そのおかげで、間違いが大きければ大きいほど、大きな進歩を遂げられるのだから。・・・己の地位に固執して批判を拒絶する者に成長は訪れない。我々の世界に大きな転換が起こり、ポパー的な反証主義で批判をとらえる姿勢が広く浸透すれば、私生活にも、社会生活にも革命が起こり得る。もちろん、仕事をする上でも例外ではない。
最後に、本書の締めくくりとして著者は、「誰でも、いつからでも能力は伸ばすことができる」と結論付けている。そして、そのために必要なのが失敗であり、人間が成長するプロセスに「失敗は欠かせない」と前向きに強く認識している人こそが成功者たり得るのだと言う。
つまり、失敗は「避けるべきもの」或いは「しても構わないもの」ではなく、人間の成長・成功のために「必要不可欠なもの」なのである。