時は1980年代前半、ソ連の最高機密文書をアメリカに提供しつづけた男がいた。「10億ドルの(価値ある)スパイ」とアメリカ政府の中枢から呼ばれていた人物だ。
この大物スパイの活躍は長年機密扱いとされ、これまで表舞台で語られることはなかった。最近のCIA(アメリカ中央情報局)機密解除をうけ、本書でその全貌がはじめて明かされている。ワシントン・ポストの敏腕記者が、千ページにもわたる機密文書と関係者への取材から、アメリカとソ連の諜報戦の最前線を緻密に再現させた一冊だ。内容の濃さとスリリングな展開おいて、スパイ本の中でも群を抜く傑作である。
物語は、1977年1月、とあるロシア人の男がモスクワ市内のガソリンスタンドで給油していたCIA支局長に手紙を渡すところから始まる。はじめCIAは男をKGB(ソ連国家保安委員会)による囮と疑い、相手にしなかった。しかし、彼から継続的に提供される情報の価値を無視できず、ついには接触を開始する。この男こそが、のちに「10億ドルのスパイ」と称される本書の主人公アドルフ・トルカチェフである。
トルカチェフはソ連の軍用レーダーの開発に携わる研究所「電波工学研究所」に勤めるレーダーエンジニアで、所長に次ぐポジションの主席設計者であった。彼は、その職位からソ連の最高機密書類にアクセスする権限を有しており、アメリカが喉から手が出るほど欲しい情報を持ちだせる人物だったのだ。
CIAと協力関係を築いたトルカチェフは、特殊な小型カメラを使い、研究所で入手できる最高機密書類を自宅や研究所内のトイレで人知れずに複写し続けた。そうして撮られた数百ページにもわたる貴重な情報は、長い間、定期的にCIA工作員に手渡されることになる。KGBに怪しまれないよう秘密裡に。
トルカチェフの存在がKGBに気付かれないよう、CIA工作員は相当な下準備をした上で彼と面会していた。ソ連国内では常にKGBに監視される運命にあるCIA工作員は、秘密裡にトルカチェフと接触すべく、あの手この手でKGBの監視の目から逃れている。尾行をかわすために数時間市街を練り歩き、途中、変装したり、マネキンを使ったりしながらKGBを欺いていたのだ。まさに手品師のような芸当だ。CIA工作員が幾千ものKGBの監視網から逃れるシーンは、ストーリーの緊迫する山場の一つであると同時に、本書がアメリカの諜報戦の実際を知る上で一級の資料だということを証明している。
トルカチェフがスパイになった動機は「腐った体制への攻撃」だった。スターリン体制へ反発を抱いていた彼は、体制を弱体化させるために自らの意思で敵国に機密情報を流したのだ。CIAは貴重な情報を提供するトルカチェフに累計200万ドルほどの大金を支払っている。当時のCIAによるスパイへの報酬としては過去最大だが、トルカチェフはその対価の何百倍もの働きをした。
トルカチェフが提供したソ連の戦闘機や砲撃機に搭載されるレーダー性能などの軍事機密は、数十億ドルもの価値ある情報だった。アメリカは、無駄な研究開発費を費やすことなく、ソ連の戦闘機や防空システムの弱みに的確に対応できる兵器を造ることができたのだ。結果的にアメリカは空中戦で圧倒的な有利な立場を築くことになる。トルカチェフの情報によって開発された戦闘機は、後の湾岸戦争やユーゴスラビア紛争で使用され、ソ連産の戦闘機に対して圧倒的な有利な戦績を残したのだ。トルカチェフによるスパイ行為によって、アメリカはソ連に対する軍事的優位性を保てていたといっても過言ではない。
そんなトルカチェフによる攻撃も、1985年6月に終焉を迎える。トルカチェフの存在がKGBに暴露されてしまうのだ。担当していたCIA工作員はトルカチェフと会いにいく途中でKGBに逮捕された。KGBに探知されないよう細心の注意を払っていたはずなのに、なぜバレてしまったのか。
CIAはKGBに情報をリークした人物を見つけ出すが、そこで驚愕の事実が発覚する。実はその人物とはCIAの身内だったのだ。事実は小説よりも奇なり。CIAから捜査依頼を受けたFBIは裏切り者である元CIA職員を徹底マークするが、意外な結末を迎える。さながら小説や映画のようにスリリングな展開と結末であり、本書を薦める所以だ。
今日、CIA本部にはトルカチェフの肖像画が飾られている。機密解除後の2014年8月、CIAの偉大な作戦を描いた絵画集に彼の肖像画が仲間入りをしたのだ。本書の口絵にその肖像画が載っており、トルカチェフの気迫と不安が入り交じった顔から彼の生き様がヒシヒシと伝わってくる。
本書を読むまで、冷戦後半から現代に至るまでのアメリカによる軍事的優位性は、一人のスパイが提供した情報によってもたらされていたとは、思いにもよらなかった。たった一人のスパイが現代の国際政治の秩序をつくったとは虚をつかれる思いだ。しかも、トルカチェフは軍や情報機関の人間ではなく、一エンジニアである。
国際政治や安全保障を動かす諜報戦。普段、知るよしもない諜報線の最前線をリアルに描く貴重な一冊だ。