戦後、上野に葵部落と呼ばれる最貧スラム街があった。世帯数は143。住民数は750人。住民の4割が路上やゴミ箱に捨てられている廃棄物を集める「バタヤ」と呼ばれる職業に従事していた。現在、その地は我々にとって非常に身近な存在だ。7月に世界文化遺産登録が決まった国立西洋美術館本館が建っている。
タイトルから想起されるように歴史を辿りながら、上野の表と裏を描いた一冊だ。
上野は清流も濁流も隔てなく受け入れる。むしろ、すべてを飲み込んでしまう。美術館や博物館が並び日本有数の文化エリアである一方、立ちんぼやホームレスなど社会からはみ出た人々もどこからとなく集まる。在日朝鮮街も形成されている。
上野を15年以上調査してきた社会学者で筑波大学大学院の五十嵐泰正准教授も本書のインタビューで上野を世界でも希有な街と上野を位置づける。
興味深いのは、この聖と俗が隣り合わせで存在するのは今に始まった話ではない点だ。江戸時代に上野は徳川家が建立した寛永寺の近隣には男色を売る陰間茶屋が立地し栄えたという。
なぜ、人々は上野に惹きつけられるのか。上野は北関東や東北への玄関口となるターミナル駅。雑多で田舎くさく、どことなく懐かしいがそれだけでは説明しきれない。著者は表と裏を行き来しながら、上野に眠る秘密とそこに吸い寄せられる男女の息づかいを描く。
駅前の「上野の九龍城」と呼ばれる風俗ビルで働く中国人。不忍池で「客」を待ち、立ち続ける初老の女性。超一流企業を退職して上野で写真を撮り続けるカメラマン。上野公園の摺鉢山に夜な夜な無言で集う男たち。
欲望の色も多彩だ。会員制と呼ばれるゲイサウナではどのような情念が渦巻いているのか。パチンコ関連会社がひしめき「パチンコ村」を形成する背景とは。愛人との密会場所はなぜ上野が多いのか。年末のアメ横で鮮魚を買ってはいけない理由とは。
余談ではあるが、元首相の田中角栄の一面も垣間見られる。ホモ映画界のレジェンドでピンク映画男優の山科薫が登場するが、山科の父は田中の「神楽坂の愛人」と呼ばれた辻和子の実兄だった。辻と田中の間には二人の子どももおり、「叔父さん」として山科は田中と付き合いがあったという。
ある日、山科は父親に「田中の叔父さんと話しあってこい」と言われ、角栄の神楽坂の別邸を訪れる。ピンク映画俳優を廃業させようとした父の思惑をよそに角栄は「若いうちから手に職をつけるってのは、大賛成だ。まっ、そのー、ヤクザでもオカマでもなんでもいいから、やるからには一番になれ!よっしゃよっしゃ」と言い放ったとか。よっしゃよっしゃかどうかはわからないが、角栄らしいエピソードである。
著者は『東京最後の異界 鶯谷』に続き、聖なる世界と欲望の世界が同居する街を描いた。鶯谷以上に、とらえどころの無い上野の不思議な魅力を見事に捉えている。
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