この本には本当に驚かされた。介護の技法書だと思って読み始めたら、これからの時代を生き抜く哲学の本だったのである。ユマニチュードとは、認知症高齢者ら介護される側の人間性を取り戻すケア技法であり、それを支える哲学のことである。本書のオビには「ケアを受ける人に愛情が伝わるから、ケアをする人も愛と誇りを受け取れる」とある。だから、テクニカル一点張りではないことは、読む前にもわかった。でも面構えは、あくまで介護の技法書だったのだ。
しかし読後私は、読む前に想像した場所とはまったく違う場所にいた。本書は、現代の不気味な通奏低音となっている「人間疎外」の処方箋になるになるかもしれない、と思わず心が昂ぶったのである。私は、勤務先で介護制度を活用している身だが、私の他にも身の回りに介護と奮闘中の人を知っている。高齢化社会が進展する中、意識的に目を伏せようとしない限り、多くの人がこれに近い環境に置かれていることだろう。
人口構造が変わり、従来の働き方が馴染まなくなっているのは、誰の目にも明らかである。しかし、自分なりの働き方を選ぶことは容易ではない。そこに従来のモラルが連綿と引き継がれているからである。私は、そのモラルに代わるものを自分の中に打ち立てたいと、ひたすら考えてきた。しかしまさか、今回の読書でそこにたどり着けるとは思ってもみなかった。驚いたことに、本書は、最高の形で私を裏切ってくれたのである。
ユマニチュード誕生までの経緯、介護の現場で起きていることの分析、4つの柱や5つのステップといったユマニチュードの根本思想の紹介など、本文が素晴らしいのはもちろんだ。しかし、なかでも腰を抜かすほど秀逸なのが、本書のエピローグである。それはまるで深遠な詩のようでもあり、それを読むだけでもお金を払う価値がある、とすら私には感じられた。もちろん皆様には、ぜひ全文をお読みいただきたいが、ここではその一部を引用する。
あなたが私に対して「いいえ」と言う権利を持っていると私が知らなければ、あなたの言葉を信じることはできないでしょう。あなたが私に「いいえ」と言えるのは、私を信頼しているからです。強制された「イエス」が恐怖から生まれるとしたら、尊重の「ノー」は自由から生まれます。 ~本書より
何度でも繰り返し読みたくなるような、含蓄深い言葉である。ユマニチュードは、1982年に本書の著者の二人がそれまでの介護技法に「ノー」というところから始まった。それまで看護師は、先輩から引き継がれてきたモラルや技法に殉じて、「良かれ」と思いながら、泣き叫ぶ高齢者に対し身体抑制をしてきたという。世界人権宣言にも反する「抑制」という行為を、簡単に選択していたのだ。しかしもちろん、看護師たちの人格に問題があったわけではない。その理由を、本書ではこう説明する。
私の出会った看護師たちは賢く、優しい人たちばかりでした。ただ病院というシステムの中にいると、ある制約の中で生きているので、次第に、「こうせざるを得ない」という発想になりがちです。自分で考え、それまでと違う新しいことをするのは許されないと思っているのかもしれません。 ~本書より
病院で連綿と引き継がれてきた技法と、そのベースとなる考え方に、二人は敢然と「ノー」と言ったのだ。エピローグで、「人生において最も大事な言葉は「ノー」だと思っています」と著者は述べている。絆を結ぶ重要性を説く哲学でありながら、大事なのは「イエス」ではなく「ノー」だというのである。また、日本は「イエス」の国だという記述もあった。ここで私の頭の中は少し混乱して、上を向いて、しばし呆然としてしまった。しかし後述するある人の言葉を思い出し、著者の言いたいことに、突然思い至った。
これまで日本は、強固な上下関係をもとにした“従属の「イエス」”によって経済発展してきた。しかしこれからは、「ノー」と言える絆のうえで、“選択の「イエス」”を言えるようにならなければいけない。“従属の「イエス」”が前提となっている限り、人間疎外の現状は何も変わらない。つまり、介護施設、病院、ブラック企業、学校、家庭・・・著者が言いたいのは、個々の人間関係で一つずつ強い絆を築いていく必要があるということなのではないか──。
その時私は、ズドーンと腹に落ちるものを感じ、ユマニチュードの普遍性と骨太さを実感した。このエピローグを読む数日前、九州の叔父さんから電話がかかってきた。5年ほど前から奥様が脳の病気で高齢者施設に入られていて、私たち家族はずっと気がかりで何かお手伝いしたいと考えてきた。しかし、お中元とお歳暮のやりとりで、半年に一度、元気なお声を聞くたびにホッとして、何もせずにきたのである。今回、電話口で、叔父さんが言った言葉が忘れられない。
「ほとんど何もわからんような顔ばしとっとけど、こっちが話しかけたら、少し笑うようなときがあっとよ。笑うたら、やっぱりこちらも嬉しかとばい。」
叔父さんが元気な理由がわかった。奥様も幸せに違いない。二人の間には、強い絆がある。「この世界を生きる上で最も大切なことは、絆で互いが結ばれることです」とは本書の言葉だが、この1点において二人は満たされている。声色から、電話口で笑顔が溢れているのが伝わってくる。どんなに時間がかかっても、非効率でも、人と人との絆はこうして結ばれているのが理想なのだ。経済活動よりも先に、私たちは、それを忘れてはならない。
ユマニチュード技法の4つの柱は、「見る」「話す」「触れる」「立つ」だ。そして、「出会いの準備」「ケアの準備」「知覚の連結」「感情の固定」「再会の約束」という5つのステップがある。本書を読むと、4つの柱は赤ちゃんを「人間」として迎え入れるために自然にすることであり、5つのステップは好きな人に会いに行くときに自然にすることだと説明されている。看護側はできるだけ短時間に終わらせたほうが良いから、病室にノックをしないで入る。目も見ず、話しかけることもせず、ただ体位だけ変えて戻る。だから、高齢者は怒るのだ。
このような病院の事例一つをとってもそうだが、人間疎外の原因となるシステムには、ある意味で合理性がある場合が多い。だからこそ、浸透しているのだ。あなたがブラック企業の幹部なら、経済合理性のある深夜のワンオペに「ノー」と言えるだろうか。古い物差しで有能な人であるほど、それが必要だと考えるかもしれない。これからのリーダーは、業績を伸ばすことを達成しつつ、人間疎外に「ノー」と言える懐の深さが必要である。従業員やお客様との関に、九州の叔父さんたちのような強い絆をつくれる否か。それは途方もない作業かもしれないが、ユマニチュード的な視点が強く求められる時代が間違いなく来ている。