子どもの頃のお正月は凧上げと百人一首。子ども心に好きだった遍昭の歌などは、そっと近くに寄せておいたものである。本書は、「隣の赤」など興趣をそそるタイトル50組のもとに其々2首の現代短歌を選び合わせて百人一首としたものである。定家が本書を手にしたら、定めし喜んだことだろう。
読み始めるとこれがまた無類に面白い。冒頭の「隣の赤」というタイトルの何とも言えない不気味さ。塚本邦雄の「不運つづく隣家がこよひ窓あけて眞緋なまなまと輝る雛の段」。この歌からスタートさせる著者の審美眼には脱帽せざるをえない。
短歌は字数が限られている。散文とは異なり、短歌を紹介しようとすれば自ずと余白が生まれる。つまり、視覚的な効果を狙った本作りができるのだ。圧巻は「仰ぐ空」の黒崎善四郎「介護5 妻の青春」から引かれた短歌(言葉)の壁。この夫婦の共に過ごした時間が凝縮されてそそり立つ。
普段は本を滅多に読み返さない僕が、あまりの面白さに、読み返そうとしたタイトルには付箋を貼っておいた。「その秋」、「崩壊の調べ」、「朝のクロワッサン」、「夕暮れに歩く」、「猫と かくこう」、「時代の空気」、「立ちあらはるる」などなど。
末尾まで読み進んでいくと著者と歌人2人の鼎談が組まれていた。そこでは、「その秋」と「崩壊の調べ」、「夕暮れに歩く」などが余りにも見事に分析されていて点睛の余地が全くない(後で皆さん、楽しみに読んでください)。残り物の福を信じて心に引っ掛かった歌をいくつか。
気の付かないほどの悲しみある日にはクロワッサンの空気をたべる」杉崎恒夫。クロワッサンではなく「クロワッサンの空気」こそが存在することの悲しみには確かに相応しい。「かくこうのまねしてひとり行きたれば人は恐れてみちを避けたり」宮沢賢治。セロ弾きのゴーシュから連想して異形の表現者、賢治をこの一首で描き切る。なるほど。
「マガジンをまるめて歩くいい日だぜ ときおりぽんと股で鳴らして」加藤治郎。僕の学生時代は全共闘時代とほぼ重なるが、みんな朝日ジャーナルを手にしていた。「本当に愛していたら歌なんて作れないよという説もある」大田美和。その頃は手紙で思いを伝える時代だった。でも便箋を前に一行も書けない時間が間違いなくあったような気がする。
この本は、宮部みゆきさんが薦めてくださった。そうでなければ手に取ることはおそらくなかったであろう。豊饒な世界の扉を開けてくださったことに深く感謝したい。わが国には本歌取という伝統もある。ビジネスパーソンの皆さん、本書を一度紐説いてみませんか。
この本の帯には「短歌は美しく織られた謎・・・・・・言葉の糸をほぐして隠された暗号を読み解き、確かな読みで、その魔力を味わう―」とある。魔力をたっぷり味わって、その一端を朝礼か、飲み会の席で披歴すれば、同僚が皆さんを見る目が一味違うものになること請け合いです。第一、短歌の1つや2つ、自然と口に出るビジネスパーソンって、カッコいいとは思いませんか?
出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。