著者は冒頭「序に代えて」で次のように述べる。「筆者は、(偉大なドイツ陸軍に係る)定説の否定、偶像破壊に走っている。読者は、そう感じられるかもしれない。しかしながら、筆者が述べることは、今年、2016年現在の常識、もしくは定説にすぎない。もし、それが衝撃を与えるとすれば、日本におけるドイツ軍事史理解の遅れがなさしめていることだとしか言いようがなかろう。そのような不幸な溝を埋めるために、本書がいささかなりと役にたつなら、筆者としては望外の幸せである」。
この言やよし、そして本書の内容は、この言葉通り明解極まりない。後の祭りだが、僕も同じことを拙著(「仕事に効く教養としての『世界史』」、「世界史の10人」、「『全世界史』講義、Ⅰ、Ⅱ」)のまえがきに書くべきだった。もちろん、本書と拙著とでは書物としての「出来が違う」ことは十分自覚しているが。
第1章「戦史をゆがめるものたち」。怪しげな「新説」が一刀両断される。それらは、第3者による検証が不可能な「新資料」「新事実」に基づいたものであり、学問的な実証手順を抜きにして組み立てられた砂上の楼閣にすぎない、と。胸のすくような頂門の一針だ。これは、戦史を歴史一般と読み替えて理解すべきであろう。
第2章「プロイセンの栄光」。ここでは、18世紀から1917年までが語られる。即ちフリードリヒ大王、ナポレオン戦争、モルトケと続く栄光の時代だ。加えて、第一次世界大戦でロシア軍を撃破したタンネンベルク殲滅戦。ヒンデンブルクとルーデンドルフの令名が鳴り響いたが、実際にこの作戦を構想し、1410年にドイツ騎士団がポーランド・リトアニア軍に敗れた史実を踏まえ復仇の含みを持たせて同じ「タンネンベルクの戦い」と命名したのはホフマン中佐だった。
二正面戦争に直面したドイツが、まずフランスを叩き返す刀でロシアに向かおうとしたシュリーフェン・プラン。参謀総長の小モルトケが改変したので失敗したといわれてきたが、そうではなくプランの大前提そのものが政治的軍事的な欠陥を内包していたのだ。
第3章「政治・戦争・外交。世界大戦からもう一つの世界大戦へ」。ここでは、1914年から1941年までが扱われる。中心テーマの1つはこれまで無謀と思われてきたドイツの対米開戦の問題である。著者はヒトラーの単独決断ではなくドイツの海軍と外務省が関与しており、1941年12月時点ではそれなりの合理性を持っていたと指摘する。
第4章は1941年から1945年の「人類史上、最大の戦い。独ソ戦点描」。驚くべき事実が次々と明かされる。開戦後わずか2か月、1941年8月に終了したスモレンスクの戦いが隠されたターニングポイントであり、ドイツが頼みとした鋭利な剣(装甲部隊)はロシアの斧と打ち合って心臓部に致命的な一撃を与える能力を失った。つまり、初めからドイツに勝機はなかったことになる。
史上最大の大戦車戦としてつとに名高い1943年7月のクルスクの戦い。ドイツ装甲部隊の白鳥の歌といわれており決定的な打撃を受けたといわれてきたが、実際の戦車の損失数を仔細に調べていくと、クルスクではドイツ軍は健闘しておりむしろそれ以降の苛烈な戦闘の連続によって徐々に消耗していったことがよく分かる。
第5章「ドイツ国防軍の敗北」1945年。軍需相シュペーアの努力により、空襲の激化にもかかわらず1944年夏にドイツの兵器生産量がピークに達したことはよく知られている。しかし、東部戦線のドイツ軍は1943年以降四半期ごとにスターリングラードのそれに匹敵する物資装備の損害を出していたので、補充が追いつくはずがない。1945年のドイツ軍は武器どころか軍服も供給できなかったのである。
最後の付章。イタリア軍の弱体振りはよく物笑いの種にされる。1900年の英国を100とした1938年の各国の工業ポテンシャルはドイツ214、英国181に対してイタリアは46である。装備の劣悪さの割にイタリア軍は健闘したと著者は指摘する。本書の説得力が高いのは、このような具体的な数字・ファクトに立脚しているからではないか。歴史書は須らくかくあるべきであろう。
出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。