それは突然湧き起こる。見知らぬ路地に出くわしたとき、身近な人の意外な一面を発見したとき、目の前の木からリンゴが落ちたとき……。
「好奇心」がテーマの一冊である。何が好奇心を枯渇させ、何が好奇心を豊かにするのか。好奇心に火がつくメカニズムはどのようなものか。好奇心を絶やさないために重要なことは何か。好奇心の強さとその人の所得との関係。などなど、「知りたい」気持ちについて多彩な話題が繰り出される。
好奇心はどのようにして刺激されるのだろうか。心理学・行動経済学者のジョージ・ローウェンスタインが提唱した「情報の空白」という考え方がヒントになる。新しい情報よって無知を自覚し、自分の知識の空白地帯の存在に気がついたときに好奇心が生まれるというものだ。
ここで重要なのは、「少し知っていること」が好奇心に火をつけやすいということ。好奇心は、何も知らない事柄に対して湧いてくるかのようなイメージを持たれがちだが、実際には、人はまったく知らないことには興味を持ちにくい。「何を知らないか」すら分からない状態では、疑問を膨らませることも難しくなる。
もちろん、すでに知り尽くしていると思っている事柄に対しても、知りたいという欲求は湧きづらい。好奇心が最も発揮されるのは、「知りすぎ」と「知らなすぎ」の間なのだ。
知識と好奇心との結びつきについては、「長期記憶」という切り口からも語られる。ある事柄に対して好奇心を抱くか否かは、その人の中に蓄積された長期記憶に左右される。
関連付けられる知識の幅が広いほど、新しい情報は脳に定着しやすく、興味も湧きやすい。大人になってから歴史の面白さに目覚める場合などがまさにそうだろう。学生時代に詰め込んだ知識がいくらか残っているのに加え、過去と照らし合わせる「今」についての知識や人生経験が増えたために、結びつけることのできる接点の数が多くなったのだ。
知識と好奇心のこうした関係を知ると、「知りたい」と思うまでの前提知識をいかに手に入れるかが肝なのだと分かる。面白さに気づくための火種が撒かれていなければ、火の気がいくら近付いても興味に火がつくことはない。しかし、興味がない段階で知識を蓄えることは、何かしら外からのきっかけがなければ難しい。
近年、「子どもの自主性に任せる」教育のあり方が広まってきているが、著者はこのような「進歩的教育」に対して疑問を投げかけている。こういった、「どこまで教えるべきなのか」という話は個人差のある話なので、白黒つけようとすることにあまり意味はないだろう。だが、「自由」と「好奇心」という言葉を安易に結び付けてしまわないようにしたいとは思った。強制されてやる勉強も、後に面白さに気づくための知識的な土台を築くことで、自力では出会わなかったであろう興味にたどり着くことに役立っているかもしれないのだ。
ひとつ確かだと思わされたのは、著者の言うような進歩的教育は、個々人の好奇心の格差を助長する方向に流れていくということだ。自由競争によって格差が広がるように、その人の思うがままに委ねることで、好奇心が比較的旺盛な人はますます興味の幅を広げ、それ以外の人との差が開いていく。知識が知識を呼び、経験が経験を呼ぶという循環に乗った人とそうでない人との間で好奇心格差が生まれるのだ。
「知識重視の一般的なカリキュラムに従って学ばせることは、恵まれない環境にある過程の子どもたちが自分自身の状況を変える力となる知識や技能を手に入れる唯一の手段である」と著者は言う。自分の興味の赴くままに物事を追いかけているだけでは、結果的に関心の幅は狭くなっていくのかもしれない。
このように、本書では教育に関する話題にも至るところで触れられる。赤ちゃんが喃語を発したタイミングでものの名前を教えると、その名前を覚える確率がより高まるという研究や、自分が置かれた環境を積極的に調べようとする赤ちゃんほど思春期の学校での成績が良かったという研究など、興味深い話が色々と引かれている。詳細はぜひ実際に読んでみてほしい。
好奇心はとりとめがなく、そもそもタイミングや縁にも大きく左右される。スイッチの入り方は人の数だけあるだろう。それでも自分の経験を当てはめながら読むことで、無意識で、操縦不能に思えていた「知りたい」という気持ちの正体が、おぼろげながら見えてくるはずだ。