「伝えることで、世界は変わるのか」
社会問題をテーマにしたドキュメンタリー映画の配給を生業にしていると、よくこの問いに直面する。映画は、問題について人に“伝える”ことはできるが、温室効果ガスを減らせるわけでも、戦争を止められるわけでも、貧困家庭を支えられるわけでもなく、直接的な“治療薬”にはならない。
この葛藤は、映画に限らず、写真や本でも、同じように“伝えよう”とする人であれば、どこかで向き合うものなのではないだろうか。
本書「君とまた、あの場所へ シリア難民の明日」は、写真を通じて、被災地や難民キャンプ等の状況を伝えるフォトジャーナリストが、ヨルダンに暮らすシリア人難民たちを取材し、まとめた一冊だ。
シリアは、「アラブの春」と呼ばれる中東地域での民主化運動の波を受けて内戦状態となり、早5年が経つ。国民の半数以上が、国外・国内難民となっている同国の状況は、ISの台頭や周辺諸国の思惑が絡み合い、もはや「内戦」とは形容できない複雑さを増している。
本書はシリア情勢の解説本ではない。だが、そこに巻き込まれた名もなき人たちの一人一人の人生に焦点をあて、声を掬い上げるなかで、シリアに限らない、世界で繰り返されてきた「人災」の根深さをむしろ浮き立たせる。
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シリアの隣国ヨルダンにある同国最大のザータリ難民キャンプは、1周15キロほどの敷地の中に8万人を超える人々が暮らす。長期化と肥大化により、そこは「キャンプ」から今やひとつの「街」と化している。ここに暮らす難民の人たちは、キャンプの外に自由に出ることも、ヨルダン国内で労働することも基本的に認められていない。国連から配給される食料やテント、日用品、さらにはそれらと交換するためのクーポンを売り払い、生み出されてきた小ビジネスの数々は、今や「シャンゼリゼ通り」と呼ばれるほどの商店街も築いている。
当初に比べれば、キャンプ内の環境も徐々に改善され、一見、「日常生活」が取り戻されていくようにも思える。だが、どこまでいってもやはり「非日常」であることは変わらない。
ここには確かに安全があります。でも逆に言えば、安全しかないんです。
そう語るニダさんは、夫とともにシリアを離れ、キャンプで暮らして約1年が経つ。第二子をお腹に宿しているが、新しい命を迎えることの喜びよりも生むことへの不安が募る。
この子を生んでも幸せにできるのか、生まれてこない方が幸せなんじゃないかって、そんなことさえ頭を過るんです
新しい建物や設備が、私たちの希望につながるわけではないんです。働いてはいけない、ということは、子どもたちに夢を持ってはいけない、ということと同じなんですから
ザータリ難民キャンプが開設されてから2015年12月までにキャンプのなかで生まれた子どもは4500人を超える。彼らは、“故郷”であるシリアの姿を知ることもなく、キャンプ外での生活を想像すらできずに育っていく。
難民としての生活が日常化していくなかで、人としてのプライドを見失っていく人たちもいる。筆者が乗ってきた車の下に、10代になったばかりの少年がもぐりこみ、「轢いてくれ」と叫ぶ。
轢かれたらその分、外国人からお金がもらえるんだから!
戦闘で負傷し、命からがらヨルダンに逃れてきた若者たちも、怪我が治ればシリアに再び戻ろうとする。
ヨルダンでは毎日、死んだように生きなければならないだろう?だけどシリアに変えれば、死ぬのは一回だ
どうせ家族や友人は殺されてしまっている。隣国に逃れたところで、新たな居場所はない。
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本書に綴られているエピソードの多くは、暗く、重い気持ちになるものだ。
だが、筆者自身の感情をなるべく抑えて穏やかに語られる言葉の数々は、まるで現地の人たちと直接向き合っているような感覚を覚えさせる。彼らが私たちと何も変わらない、家族と仲間を愛する「人」であることを感じさせる。そして、彼らが直面している状況は、シリア難民に限られたものではなく、これまで世界各地で起きてきた紛争の裏側に存在してきたものであり、これから先に、それがどこで繰り返されるかは未知数であることもまた、予期させる。
イラクでもシリアでも、他の国でも、難民は増え続けるばかり。こうして人間である限り、争いはなくならないのかな?
本書の中で筆者は、中東世界とつながるキッカケとなったイラク人の友人にこう問いかける。彼から返ってきた答えは、
人間だから、じゃないよ。どうせそういうものだって諦めてしまう、人の心がそうさせるんだ
だからこそ筆者は伝え続けるのだろう。「伝えたって世界は変わらない」と諦めてしまうのではなく…。
本書から、そんな筆者の「伝えよう」とする意志が一貫して伝わってきて、私もHONZで紹介しなければという衝動が沸き起こった。伝え、伝わる連鎖から、変化は起きていくかもしれない。