科学が認めた脳力アップの方法とは?
知能は上げられない――それは生まれつきの能力であり、大きく伸ばすことは難しい。研究者も、多くのひとびとも、そう考えていた。ところが、近年、「知能は短期間で上げられる」という研究成果が続々と発表され、大きな注目を集めている。こうした成果に基づいた<頭をよくする>脳トレや認知能力を高めるメソッドもいろいろ開発されている。また、米国では政府系機関も関心を寄せ、積極的な研究支援を行なっている。
本書はこうした動向を科学ジャーナリストである著者が、最新の脳トレをはじめ頭がよくなる方法を、みずから実践体験することによって紹介していく。
すでに世の中には「脳力アップ」を謳う多くの商品やメソッドが出回っている。実はこうした中で、科学的に効果が検証されているものはごく少ない。著者は、まずなにが科学的に認められ、なにが認められていないのかを吟味検証する。
あの有名な脳トレ・ゲームや、頭をよくするという食品の数々、<モーツァルト効果>など、よく知られているものの多くが、科学的な効果がほとんど検証されていないことに読者は驚かされるのではないか。しかも、妊娠中の魚油(主成分はEPA、DHA)の摂取など、かえって悪影響になる可能性が示されている。逆に一般に健康に有害だと思われているニコチンが、認知能力を増強する効果のあることが明かされる。
運動が脳を鍛えることはすでに知られているが、本書では特にレジスタンス・トレーニングに注目する。記憶力の低下が見られる高齢者を対象とした研究によると、有酸素運動では認知能力が向上しなかったが、レジスタンス・トレーニングでは注意力・問題解決能力・記憶力が向上した。また、fMRI検査によっても、レジスタンス・トレーニングをしたグループだけに、脳の皮質の3つの部位の活動が増加した徴候が見られた。さらに別の研究では、運動だけではなく、脳を使う学習を組み合わせたほうが効果の大きいことがわかった。
一見、脳力アップと関係なさそうなのに、効果が確認されている方法もある。たとえば、ブームとなっているマインドフルネス瞑想。なかでも「心身統合トレーニング(IBMT)」は、要注目である。マインドフルネス瞑想の一種だが、1日20分のIBMTを5日間行なっただけで、目覚ましい効果が現れた。前帯状皮質から広がる脳の白質(認知制御や学習に関わる前頭前皮質と結びついている)の統合性、効率性も高まることが明らかになっている。
そして、いまや認知能力を高める薬も続々と開発されつつある。まだ安全性の確認など課題も多いが、近未来にはカプセルを服用するだけで頭をよくすることも、ある程度できるようになりそうだ。すでに実現している方法では、脳を直接刺激する経頭蓋直流刺激(tDCS)が興味深い。こちらは副作用なしで、作業記憶などが向上することが実証されている。
脳をヴァージョンアップするために
さて、これらの方法以上に著者が関心を抱き、チャレンジするのは最新の脳トレである。「脳を鍛えれば、脳力・知能が上がる」というのは、当たり前のように思われる読者もいるかも知れない。しかし、そうではない。冒頭に触れたように、長いあいだ、学界の定説は「知能はまず上げられない」というものだった。こうした通念が変わる大きなターニング・ポイントは、2008年のヤーキとブッシュクールというカップルの研究者による論文の発表だ。
ヤーキとブッシュクールによる研究成果の要点は、作業記憶(ワーキングメモリ)をNバック課題というトレーニングによって、短期間に劇的に向上させられることを示したことである。作業記憶はたんなる記憶とは異なり、覚えたことを利用する能力であり、<流動性知能>の中核ともされる。そして、この流動性知能こそ<頭の回転のよさ>であり、日々の新しい局面への適応に必要な能力を指す。
さて、ヤーキらの研究成果では、この流動性知能を測定する唯一最良のテストとされるレーブン検査においても著しい上昇が見られた。流動性知能の向上とは、たんに記憶力や学習能力が上がるだけではなく、いわば脳そのものがヴァージョンアップされるようなもの。その恩恵は勉強からビジネスでの的確な判断まで、ボケ防止から認知症や鬱、ADHDの治療に至るまで実に幅広い。だからこそ、ヤーキらの研究は大反響を呼び、新たな<知能向上の科学>の誕生とも言える画期となったのだ。
こうした最新の研究動向とともに、さまざまな脳トレ法も開発されていく。コグメド、ルモシティ、ポジット・サイエンス、ラーニングRx。一般ユーザーを対象としたものから、ADHDや認知障害の治療に役立つもの、またネット上のゲーム形式のものから、対面式のトレーニングまで揃っている。また脳トレ法ではないが、シューティング・ゲームのように、結果として知能も上がる可能性が示唆されているものも出てきた。
知能が上がるって、脳がどう変わること?
もっとも、この知能向上の科学は、まだ発展途上であり、研究者同士で盛んな論争が巻き起こっている。そもそもマウスでさえ、作業記憶トレーニングの実験によって、一般的な認知能力を上げられることがわかった。迷路を使った人間とマウスの知能競争というユニークな実験では、「迷路における人間の行動は、げっ歯類の行動と類似していた」。こうなると知能が上がるとはどういうことなのか、改めて根幹から問われるようになる。そしてまさしく、それこそ研究者同士の激突として、本書が後半で描き出すストーリーなのだ。
このストーリーの一方の主役は、ランディ・エングル(ジョージア工科大教授、注意と作業記憶研究所・主任研究員)であり、彼を筆頭とする知能向上の懐疑派たちだ。もう一方の主役は<知能向上の科学>の立役者であるヤーキとブッシュクール、そしてその研究成果を支持する一群である。この両派はともに作業記憶と流動性知能が密接に関わっていることについては、ほぼ見解が一致している。
エングルらの論文は、作業記憶と流動性知能のどちらも、「頭を働かせ続ける能力を表している。特に邪魔が入ったり干渉を受けたりしたときに」と指摘している。この<邪魔になるものを無視する能力>とは、他のことを遮断して、あることに注意を集中するといった感情や注意をコントロールする能力のこと。
これは、マシュマロ・テストとして知られる意志力・自制力の実験とも関わりがある。マシュマロ・テストでは、与えられたマシュマロを我慢して食べなかった子どもは、将来、学業においても優秀な成績を収めることがわかっている。注意制御や自制には脳の前頭前皮質が関わっているが、そこは作業記憶とも結びついている部位なのだ。また、一見、脳力アップと関係なさそうなマインドフルネス瞑想やシューティング・ゲームの効果も、注意制御力を養うことに関わっていると言えるだろう。
では、エングルをはじめ、知能向上の懐疑派たちが問題にするのはなんだろうか? 懐疑派は、「作業記憶のトレーニングで、流動性知能は向上しない」と主張している。エングルは作業記憶と流動性知能には密接な関係があるとしながらも、それらは切り離すことのできる概念だと考えている。一方、ヤーキら知能向上の支持派は、訓練で作業記憶が上がれば、それが流動性知能に関わるさまざまな局面に転移・波及するという。ここが、大きな論点となっているのだ。
本書でドキュメンタリー風に紹介されるように、近年の学界の動向は、ヤーキらの説を裏づける論調のほうが主流になっている。エングルとヤーキの論戦は生々しく、またその激しさゆえに、科学的な探究への情熱を感じさせる。
さて、本書には別の懐疑派も登場する。<1万時間ルール>で知られるエリクソンだ。彼の説では、長期間に及ぶ厳しい訓練こそが達人を生み出す。ところがヤーキらは短期間で知能(才能の開花にも関わる)が向上するとしている。むろん、ヤーキらは作業記憶トレーニングで、世界的な達人になれるとは言っていない。しかし、長く厳しい練習ではなく、短期の認知トレーニングで知能全般が上がるという結果は、エリクソンの見解とは相容れないものだった。しかし、本書で示されているようにエリクソンの主張には明解な批判も出ている。
どちらに与するのであれ、私たちは著者のようにみずから体験してその成果を知ることができる。まず、自分で始めてみよう! それこそ、本書が伝えたいなによりのメッセージなのだから。