ヴォネガット最後の著作となったエッセイ集『国のない男』が2007年に日本でも出版され、その当時すでに、ほとんどのエッセイが訳されていたことから「ああ、これがエッセイとしては最後かぁ……」と感慨深く読んだのを今でもよく覚えている。『スローター5』などに代表される厳しい現実や愚かな人間を直視しながらも「そういうものだ(So it goes)」と言ってのける彼の優しく笑いのこみ上げる語り口は、小説でもエッセイでもたまらなく魅力的なものであった。
それだけに今回また小説ではない本(本書『これで駄目なら』)が出ると聞いて「まだ出てないエッセイがあったんだ!」と喜んだが、エッセイではなく新たに編まれた大学卒業式の講演集である。ページ数も訳者あとがきまで含めて142Pとこぶりの単行本だが、「まだ新しいヴォネガットの言葉が読める」というだけで嬉しい。もちろん、単なる感傷などではなくその語り口と質に関していっても、これまでのエッセイとくらべて何ら劣るものではない。
というより、これまでのエッセイにも講演を収録したものが多数あるから当たり前なのだが。それはヴォネガットが卓越した話し手でもある証拠の一つだろう。まるで小説のように最初の一言から意外性のある言葉で引き込んで、そのまま数々の思いがけない──時には誰もが目をそむけて見ないようにしている”事実”にあえて言葉を向けてみせる。初期のエッセイ集である『ヴォネガット、大いに語る』では、はしがきとして下記のように自嘲的に語ってみせているぐらいだ。
アメリカ経済には奇妙なことがたくさんありますが、これもそのひとつ。アメリカの作家にとって、短編小説の傑作をひとつ書き上げるよりも、つぶれかかった大学でつまらない講演を一回やったほうがよほど金になるのです。そのうえ、同じネタを何度も使って稼ぐことができる。だれも文句を言いません。
ヴォネガットの作風や世界の捉え方はシニカルなどと表現されることも多いが、実際のところ彼は「ただ、あるがままの現実を正直に語っている」のだろう。本書の序文でアメリカの小説家ダン・ウェイクフィールドは次のように語っている。『ヴォネガットの言葉に嘘は見つからないはずだ。彼は、わたしたちの時代にあって、真実を語る者だった』。
それが決して嫌味に聞こえず、むしろ笑いに転嫁されるのは、彼がそれをあまりにも当たり前のように話し、根底としては楽観主義に支えられているからかもしれない。たとえば、『わたしたちみんながとても気の毒だ。この時間が終われば、人生はまたすごく辛いものになる。』と彼は講演でとんでもなく悲観的なことを言ってのける。でも同時に、『わたしは君たちが教育を受けてくれたことに感謝している。合理的になり、物事を知るようになったことで、君たちは自分たちのいるこの世界を、より理性的なものにしてくれた。』とも言ってみせる。
この世界は決して希望に満ち溢れたものではない──しかし、教育は少しずつこの世界をマシなものに変えていってくれる。『ヴォネガット、大いに語る』でも、『凡庸な文筆家でも、忍耐強く、勤勉でさえあれば、自分の愚劣さを改訂したり、編集しなおしたりして、ひとかどの知性らしきものに仕立てあげることを許されます。』と語っているが、現実認識はあくまでも悲観的に、しかしいったん最悪の自体を「受け入れて」しまえば、あとは楽観的に対処する。悲観的な楽観主義者とでもいうような精神性が、ヴォネガットの言動の底流に流れているように思う。
助け合うこと、コミュニティに参加すること
さて、卒業講演集であるということは、聴衆は基本的には長い修行期間を終え、これから収穫期へと乗り出す若き人々だ。つまるところそこには一貫して「未来に向かって」語りかけるようなテーマが存在している。君たちはいかにしてこの後も長く続く人生へと向き合っていくのか──。「(講演は)同じネタを何度も使って稼ぐことができる。」と自分で語っているように、他大学の講演であっても同じことを言っているケースは確かに多い。ただそれは、各々が人生にどう向き合っていくべきかについて変わらぬテーマを持っていれば当然のことだ。
幾度も語られていくのは、これからの人生で誰しもに訪れる危機、孤独と退屈とその解決方法について。たくさんの組織に参加すること、謝るべき時は素直に謝る、人に承認を与え、感謝を伝え、助けあって生きること。そうしたひどく当たり前のことに過ぎない。
マーク・トウェインは、その豊かで満ち足りた、ノーベル賞なんてもらわなかった人生の最期に、人生には何が必要なのかを自問してみた。そうして、ほんの六語で足りることに気がついた。わたしもそれで充分だと思う。君たちにも満足いくだろう。
「隣人からの適切な助言(The good opinion of our neighours)」
実際には、ヴォネガットのいうところの「隣人」、コミュニティでも組織でも家族でもなんでもいいのだが──は、数十人ぐらいの規模のコミュニティを意味しているようだ。長い間お互いのことを知っていて、時に助けになってくれるゆるやかな共同体。そこから助けを得るためには、学校で学んだ知識を駆使し、礼儀と敬意を持って、模範的な本と年長者に従う暮らしをするべきだと。しごく当たり前のことのように聞こえるが、実行するのは難しい。
そういう助言をもらえるかは、ノーベル賞をもらうくらいに難しいものだ。賭けるかね? 賞金なんてただの百万ドルじゃないか。ないよりマシってものにすぎないんだよ。
文筆家というのは、誰も言わないことをあえて言うからこそ価値が生まれる仕事である。紋切り型の表現しか出てこないのであればそれで金をもらうことは難しい。しかし、表現はともかくヴォネガットは「当たり前のこと」を多く語る。金を稼ぐコツは、懸命に働くこと。愛を勝ち取るには、いい服を着て、いつも微笑んでいること。講演のはじめか最後にはほとんど必ず「君たちが大好きだ。心から」「君たちのやろうとしていることは素晴らしい」と言ってみせる。
誰もが感謝されたがっているし、誰もが認めてもらいたがっているこんな時代に──このような「当たり前のこと」を語って、文筆家としてそれが広く受け入れられるのだとしたら──この世界にはそんな「当たり前のこと」をあえて言って、やってくれる人は少ないのだろうと思う。それも決して上から目線の語りではなく、あくまでも同時代人としての、同じ立場からのあたたかな語りだ。その言葉を聞くと、このひどい世界で共に生きてきたという、連帯感を覚える。
おわりに
書名である『これで駄目なら』とは、ヴォネガットの叔父が、幸せでありながら気づかずにいるというおそるべき浪費を避けるために、時として(休日にゆっくりとコーヒーでも飲んでゆっくりしている時なんかに)「これで駄目なら、どうしろって?」とあえて声に出すことが大切だ言ったエピソードに由来している。言ったのは叔父だが、実にヴォネガットらしい言葉だ。
ありがとう、そして、大好きだと身の回りの人に言って、自分にはこれで駄目なら、どうしろって?──と問いかける。ただそれだけのことの価値に気づかせてくれる一冊だ。