19世紀初頭の海は、現代のそれとは比べものにならないほど危険だった。当時のヨーロッパ諸国では海難事故の追跡調査が行われておらず、どれほどの人が犠牲になったかを正確に知ることはできないが、事故が日常茶飯事であったことは間違いない。イギリスの保険会社の帳簿によると、1816年だけで362隻が“海難”か“消息不明”と記されているほどなのである。
海難事故の原因の多くは、嵐や荒波にやられて行方不明になるというものではなく、座礁による沈没だった。もちろん19世紀初頭にも灯台はあったのだが、その数は少なく、なにより1つ1つの灯台が発する光が弱すぎた。LEDはもちろん、白熱電球すら発明される前の時代なのだから無理もない。その時代に使われていた炎と鏡の組み合わせという様式の灯台は、2000年前にギリシャ人によって建設されたアクレサンドリアの灯台と、科学的にはほぼ同じ進歩のないものだった。
本書は、そんな暗く危険だった海に、希望の光を灯した画期的なレンズの発明を巡る物語である。この物語には、光とはなんであるかという自然科学的探求、科学者たちの縄張り争い、最新の科学的知見の実用製品への落とし込み、量産段階へ移行することの困難さ、革新的なテクノロジーが社会へ与える大きな影響、という科学読み物に必要な要素が余すことなく詰め込まれている。ミシシッピ大学のマクドネル・バークスデールカレッジ歴史学科長である著者は、このレンズ発明の科学的背景を説明するにとどまらず、そこにまつわる人々の姿をじつに生き生きと描き出すことに成功しているのだ。
科学の時代が幕を開け、産業革命で進歩のスピードが加速的に増していった時代をダイナミックに生き抜いた科学者、技術者、政治家たちの生き様にはワクワクせずにいられない。例えば、後に政治家としても活躍するフランス人物理学者フランソワ・アラゴの人生はその前半部分だけでお腹いっぱいになるほどにドラマチック。若かりしアラゴは研究のために訪れたスペインでスパイに間違えられ収監されてしまう。その後脱獄に成功し、フランス船に乗り込み無事祖国に帰れると思ったのもつかの間、今度はその船がスペインの海賊に襲われ、カタルーニャで再び捕らわれの身となる。そして、3ヶ月後フランス軍に助けられたと思ったら、なんやかんやでアルジェリアの太守の奴隷となってしまったが、あの手この手で無事フランスに帰り着いたという。
アラゴの経験は何とも興味深いものではあるが、彼は本書の主人公ではない。ラプラスやポワソンなど科学界の巨人たちも登場するが、彼らも主人公ではない。本書の主人公は、子どもの頃には「頭の回転がにぶく」、「8歳になるまで、ほとんど字が読めなかったと言われている」オーギュスタン・ジャン・フレネルである。オタク的とも思われるフレネルの執着心と確かな理論が、人類に光をもたらすフレネルレンズを生み出したのだ。
この時代のヨーロッパ科学界は光の本質をめぐって、光を粒子であると信じる“粒子信奉派”と、光は波であると信じる“光波信奉派”の戦いが繰り広げられていた。「光はごく小さな重さのない粒子」であるとするニュートン学説は強力で、フランスでは粒子信奉派が優勢であり、エコール・ポリテクニークでのフレネルの教官もニュートン説支持者だった。しかし、ニュートン説には「光の回折」という厄介な現象がつきまとっていた。光の回折とは、小さな穴を通り抜けた光が通過した穴よりも大きな光と影の模様を作るような現象のことで、光が粒子であれば起こりえないはずだった。そのため、光の回折は科学者たちに謎であり続け、その発見から100年以上が経過しても明確な説明を提示した者はいなかったのである。
フレネルは光が波であると考え、精度の高い実験を繰り返しながら、この回折現象を説明する理論を構築していく。この実験だけからでもフレネルの類まれな創意工夫が見て取れる。フレネルは、焦点の短いレンズが手に入らないときは蜂蜜を凸レンズ代わりにし、定規の精度が低ければ三角測量の要領で角度から2点間の距離を正確に記録することで、理論値と実測値の隙間を狭めていった。光の波動性を示したこの研究は後にフランス科学アカデミーからコンクール一等賞を与えられ、波動説を否定のできないものとした。技師としてのスタート地点で、光についての深い理解を得たことが、その後のフレネルレンズの発明へとつながっていく。
フレネルがどのようにフレネルレンズのアイディアを思いつき、それを現実の製品としていったか、という過程が本書で最も読みどころのある部分である。真に革新的なアイディアはふとしたきっかけで生まれた、アイディアの具現化には意外なボトルネックが存在した、そして爆発的な普及は社会で様々な摩擦を生み出していた。フレネルレンズの誕生から普及までの過程には、新たな価値をゼロから生み出し、世に広め、社会を変えるために必要なことが満ちている。