本書は、アイルトン・セナの人間性に惹かれ親交を深めたイタリア人ジャーナリストが、ユニークな切り口で、その人物像をまとめたノンフィクションである。伝説のF1ドライバー・セナを一方的に礼賛した回顧録は世に数多あるが、本書は、敬意と友情を交えつつ、神格化されたセナの“あまりにも人間的な側面”を描くことで、逆にその魅力を最大限に引き出すことに成功している。セナ没後20年にイタリアで発表された話題作が、本年9月の日本GP(鈴鹿)を前に日本版が出版された。
『確信犯』というタイトルは、1990年日本GPで故意にプロストを撃墜した件について、1カ月以上も前にその犯行予告をしていたという「新事実」に焦点を当てたものだ。本書のオビには、「1989年の鈴鹿で彼がしたことを今度は僕がする 弾き出してやる──躊躇はしない」というセナの言葉がある。ファンなら、この言葉から人間・セナの息遣いを聞き取るに違いない。多くファンは、強さだけじゃなくその弱さにも惹かれていたはずだからである。セナは、日本で圧倒的な支持を集めたヒーローだった。本書の解説に、次のような記述がある。
人は華やかなだけのヒーローに憧れるのでなく、そこに影の部分があればこそより惹かれる傾向にある。アナキン・スカイウォーカーやアムロ・レイのような、心の中に弱さを抱えた大人になりきれない物語の主人公が好まれるのはそういうことではないか。その意味でセナには、一般大衆が惹かれる要素があった。(本書「あとがき」より)
使い古された言葉かもしれないが、時代はヒーローを必要としている。ヒーローが人々の視線を釘付けにし、熱を生み、時代をつくるのである。故に、ある時代について人々が語るとき、その時代を象徴するスポーツシーンを思い浮かべることは手がかりの一つとなるのだ。1994年5月1日。その日、セナは死んだ。一般的にみて、それ以降F1は急速に魅力を失っていった。あるヒーローの死が、ひとつの時代を終わらせることさえあるのだろうか。
本書は、その死後のエピソードから始まる。第1章で、セナの遺体が移送される飛行機の内部の様子が描かれているのだ。セナの遺体は、機長の判断により、貨物室ではなく客室に安置され、パリからサンパウロまで運ばれたそうだ。私は、はじめてこのエピソードを知った。そして、運命のいたずらか──親交の深い同い年のジャーナリストである著者の座席が、その祭壇の前の席だったのである。セナの遺体を移送する飛行機に著者が「偶然」乗り合わせ、そして「偶然」その前の席に座ったからこそ、私たちはこのエピソードを読むことができる。多くの読者は、その幸運にワクワクしながら、一気にページをめくることになるだろう。著者こそがセナに選ばれた記者なのだ、という思いを胸に。
プロスト撃墜の反抗予告と死後のフライトという、二つの「新事実」だけでも読む価値は十分ある。そして、それらの事実を扱った第1章「帰郷」と第4章「永遠の鈴鹿」に多くの紙数が割かれていることから、著者の執筆動機がそこにあることも疑いようがない。しかし、本書にはこの他に5つの章がある。第2章は、運命の1994年サンマリノGP当日のドキュメント。第3章は、運命の地イモラについて書かれた「栄光と挫折の地」。ミハエル・シューマッハー、ナイジェル・マンセルとの関係について書かれた第5章と第6章。そして、その後のF1界について書かれた最終章で終わる。なぜ、これらの章が必要だったのか。本書の冒頭で、こう前置きをしている。
これはアイルトン・セナの伝記ではない。
この20年間、その類の本は数多く世に出されてきた。
そして、これからもさらに刊行されるだろう。
それはそれで正しいことだ。
だが、ひとりのジャーナリストとひとりのF1レーサーとの間にあった
「友情」の物語を紡ぐこともまた、私にとっては正しい行いであった。
そのジャーナリストとは私自身であり、これは私の「証言」である。(本書より)
この前置きの後に、フライトシーンが始まる。伝記でもなく、事実を伝えるだけの報道でもない。著者は、後の頁でこの本のことを“追憶の旅”と表現している。プロスト、マンセル、シューマッハー、旅の共演者が次々と現れては消えていく。もちろん、どんな時も中心には、セナと彼を見つめる著者がいる。そしてこの旅の最後、最終章「継承者の条件」は次の言葉で結ばれているのだ。「僕はファンジオやその他の誰かと比較されることにまったく関心がない。僕は純粋にドライビングが大好きなんだ。だから、そうしていられる時がいちばん幸せなんだよ」セナ自身の言葉である。つまり、「継承者」について考えるのは勝手だが、セナはあくまでもセナだ、ということを余韻とともに読者に伝えているのだ。これは私の穿った見方かもしれないが、“私の証言”である本書は、根源的かつ属人的という点において、彼の存在と似ている。だからこそ、普遍性を獲得し、他には真似できない強い輝きを放っているのではないだろうか。
著者は、フェラーリのお膝元であるイタリアで、目の肥えたファンから高い評価を受けている有能なF1記者である。本書の構成をみれば、私にもそれがわかる。セナ以外の当時のトップドライバーについて言及しているおかげで、読者は、その頃の時空に旅することができる。私は、著者とともに旅をし、傍らには生身のセナがいるように感じた。
巻頭の16ページにわたるカラー写真も追憶の縁(よすが)になる。そして特筆すべきは、日本語の表現力が素晴らしかったことだ。翻訳を担当したのは、イタリア国立ペルージャ外国人大学文学部イタリア語イタリア文化プロモーション学科を卒業した日本人スポーツ記者である。モータースポーツ関連書を数多く出版している、三栄書房から出版されたのも幸運だっただろう。これから、多くの読者に読み継がれていって欲しい、珠玉の一冊といえる。
セナが輝いていた頃、私はスポーツノンフィクションの世界に魅せられていた。沢木耕太郎『一瞬の夏』『敗れざる者たち』、山際淳司「江夏の21球」(角川文庫『スローカーブを、もう一球』所収)、海外のものでは『エイトメン・アウト』などを貪るように読んだ。しかし、その後あまり読んでこなかった。本書に刺激を受けて、もう一冊スポーツものを読んでみた。『エスケープ』(辰巳出版)というサイクルロードレースのドキュメンタリーである。地味なスポーツなのに、この本は一部で非常に高い評価を受けていたので、気になっていたのである。緻密な取材が活きていて、この本も良かった。2回も続けて当たりくじを引いた。
今も、脈々とスポーツノンフィクションの世界は続いているらしい。ラグビーW杯の例を挙げるまでもなく、スポーツは人々に大きな力を与えてくれる。私は、その接点となる報道の重要性を強く感じる。対象に深く入り込み、人物や競技自体の魅力を描くことができる書き手が、いつの時代にも必要なのだ。しつこいようだが「時代はヒーローを必要としている」のだから。