2015年10月27日(火)から2016年2月21日(日)まで東京国立博物館にて特別展「始皇帝と大兵馬俑」が開催される。1974年、3月始皇帝陵の東1.5キロの地点で偶然に兵馬俑坑が発見された。兵馬俑の「俑」とは人間や軍馬の姿をありのままに写し取り、墓に埋めたひとがたをいう。2200年前の兵士と馬の姿が等身大で目の前に現れたのだ。その数は8000体にも上るといわれ、20世紀最大の考古学的発見と呼ばれている。
その膨大な俑に守られて埋葬されている始皇帝とはどんな人だったのか。紀元前259年に生まれ13歳で秦王に即位、39歳で天下を統一して49歳で亡くなる。「最初の皇帝」を名乗り、中国大陸に秦という統一王朝を打ち立てた男。暴君とも賢帝とも言われ、古代から日本にも大きな影響を与えてきたこの人物が、昨今の発見により像の形を変えつつある。
本書はこの展覧会にも深くかかわり、始皇帝の陵墓を人工衛星から撮影し、立地条件や建造の秘密にを解明しようと研究する中国史学者、鶴間和幸による最新の始皇帝像の考察である。この兵馬俑坑から発掘された様々な姿の俑や、その後に見つかった同時代の大量の竹簡(竹を乾燥させた細長い札に墨で文字を記したもの)を読み解き、始皇帝「趙正」の生々しい姿を浮き彫りにしていく。
秦という国の成り立ちや歴史、始皇帝の人物像は司馬遷の著した『史記』の始皇帝本紀によって知る人が多いだろう。ただ、『史記』は始皇帝の死後100年以上経った前漢の武帝時代に書かれており、実像であるとは言い難い。実際、『史記』では始皇帝の名は「趙政」と書かれている。この「正」と「政」の違いから本書は書き始められていく。たった1字の違いが、始皇帝没後の歴史の推移のカギになるのだ。
始皇帝には残された謎が多い。そのひとつは出生である。彼の父親は誰か。父の秦・荘襄王が、後に側近となる呂不韋の愛姫を見初めて誕生したことで、どちらが本当の父親かは長く議論されていた。まず、このことを解決する。『史記』のなかでさえ、どちらかはっきりさせていないこの問題を、発見された竹簡からの新しい事実を踏まえ、著者は大胆に切り込んでいく。徐々に大商人であった呂不韋の緻密な計画が浮かび上がってくるのだ。
幼くして即位した趙正がどのように成長し、国力を上げていったのか。人生の大転換期であったといえる嫪毐(ろうあい)の乱についても、その真相に迫っていく。
趙正が成人する以前、母親の母太后の愛人であると言われた絶倫男の嫪毐と、呂不韋は新王朝を二分するほど強大な権力を握っていた。だが、成人を迎えると彼らふたりと決別する。そのきっかけとなったのが「嫪毐の乱」といわれる反乱であった。時は彗星が何度も去来する不気味な期間。人々は不吉な予兆を感じ、身を慎んでいた。
現代ではこの彗星が何であり、いつどれくらい見えたかが明らかになっている。この事件の資料には必ずこれらの彗星が登場する。その時期を手掛かりに科学的事実を踏まえ、著者はこの事件の時系列を整理した。すると、司馬遷が『史記』で書きたかったことが輪郭を持ち始め、趙正が目論んだ側近の粛清の意図が見える。若き秦王が「皇帝」を手に入れるための第一歩であった。
戦国時代を制し大帝国を築くまでの闘いは、本書ではそれほど詳しく描かれていない。しかしその間にあった刺客の荊軻による暗殺未遂事件には1章を割いて裏側を探っていく。ここは読みごたえがあり、征伐されていくまわりの国の思惑や、滅ぼされていく人の怨念が渦巻いているのが見えるようだ。史実でありながら小説より面白い。
統一後、すべての国で度量衡の規格、車輪の幅、文書の形式を統一した。その証書の木版も2002年に発見され、地方にまで徹底されていたことがわかった。占領国へ秦の文化を押し付ける反面、各地を巡行し祭祀を行っている。潰すだけでなく懐柔も行い、人心を取り入れていく。「皇帝」という称号はどのようにつくられたのかなど、興味は尽きない。伝説の人物、始皇帝の頭の内部に入っていくような興奮を覚える。
最終章では秦の終焉にまつわる黒幕の存在について詳述される。始皇帝の背後で国を動かしていたのは誰か。「人間・始皇帝」に一番近い人物は何を目論んでいたのか。
新発見により2200年も昔の話が現実味を帯びてきた。新しい始皇帝像を浮かべつつ、もう一度『史記』の世界に立ち返ってみたい。
「始皇帝と大兵馬俑」展の詳しい記事が26日付の朝日新聞に載っていた。こちらも併せてお読みください。
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北方謙三は本書を書くに当たり、『人間・始皇帝』の著者の鶴間和幸学習院大学文学部教授に指導を仰いでいる。この小説は司馬遷の生きていた前漢・武帝の時代を描いているが、『人間・始皇帝』を読んだことで身近でリアルになり、さらに魅力的な小説となった。