インテリジェンス・オフィサーは語らず――。
情報の世界でながく語り継がれてきた箴言である。
機密情報に携わる者たちは沈黙を守り抜き、自らを厳しく律してきた。決して情報源を明かさない。これこそが彼らの至高の掟なのである。どのように情報を入手したかが露わになれば、相手側に災厄が及んでしまう。時には人命まで喪われる。それゆえ、情報を生業とする者は一切を墓場まで抱えていく。自らの功績を記録に残そうとせず、人生の軌跡すら消し去ろうとする。
インテリジェンスとは、膨大で雑多なインフォメーションから選り抜かれ、分析し抜かれた一滴の情報をいう。それは国家が熾烈な国際政局を生き抜くための業なのである。インテリジェンス・オフィサーは、ダイヤモンドのような情報を見つけ出し、国家の舵を取る者を誤りなき決断に導くことを使命とする。彼らは単なる諜者ではない。そして、杉原千畝こそ真にその名に値する情報士官だった。それゆえに沈黙の掟を守ったまま逝ったのだった。
破局に向けてひた走っていく昭和国家を引き留めるべく、杉原千畝は珠玉の情報を本国に打電し続けた。外務本省の意向に抗いながら日本への通過査証を発給し、六千人ともいわれるユダヤ難民の命を救っている。その果てに戦後、外務省から逐われてしまう。だが杉原千畝は一切の釈明をしようとしなかった。冷戦期には小さな貿易商社のモスクワ支店に勤務したのだが、親しい同僚にも過去の事績を語らなかったという。
そんな夫に代わって幸子夫人が『六千人の命のビザ』を上梓した。しかし、ヒューマニストとしての横顔はスケッチされているが、「チウネ・スギハラ」という大きな存在が等身大で描かれたわけではない。杉原はバルトの小国リトアニアの領事代理でありながら、欧州全域に独自のインテリジェンス・ネットワークを築き上げ、亡命ポーランド政権のユダヤ人の情報将校から第一級の機密情報を入手していた。ユダヤ難民を救った「命のヴィザ」はその見返りでもあった。
類稀なスギハラ情報網は、彼がリトアニアの首都カウナスからプラハに去った後、中立国スウェーデンの首都ストックホルムにいた小野寺信・陸軍駐在武官に引き継がれた。それはヤルタ首脳会談でソ連が対日参戦を約束した「ヤルタ密約」という最高機密を入手する礎となった。イギリスの秘密情報部は、欧州発の機密電を密かに傍受し解読していた。当時から情報関係者の間では「チウネ・スギハラ」の令名は鳴り響いていたのである。
私がスギハラ・ヴィザで生き延びた人々をテーマにした『スギハラ・ダラー』(新潮文庫版で『スギハラ・サバイバル』と改題)の筆を執った際、「インテリジェンス小説」の形を採ったのは情報源を秘匿するためだった。物語としたことで私の情報源は守られたが、機密指定を解かれた一連の史料に基づいて新たな「杉原千畝伝」は書かれるべきだと考えた。そして、迷うことなく外交史料館に白石仁章を訪ね、執筆を勧めたのだった。この間のいきさつは、白石氏自身が本書のなかで詳しく触れている。最良の筆者を得てインテリジェンス・オフィサー、杉原千畝はいまに蘇った。
私が特派員としてワシントンに赴任した冷戦の末期、日本では杉原千畝を知る人は少なかった。だがアメリカでは「スギハラ・サバイバル」が各界で活躍していた。シカゴのマーカンタイル取引所を率いるレオ・メラメドもそのひとりだった。
ブラック・マンデーがアメリカの証券市場を直撃し、優良株も大恐慌以来の値下がりとなった。1987年のことだ。イグアスの瀑布を思わせる暴落――ニューヨーク株式市場はその凄まじさに恐れをなして商いをやめてしまった。逆風が吹き荒れるなか、メラメドが取り仕切るシカゴ市場だけが敢然と商いを続けていた。
マーカンタイル取引所は、ニューヨーク証券市場の五百の優良銘柄を組み込んだ金融先物商品を扱っている。その優良銘柄にさえ値がつかず、シカゴ市場には売りの圧力が津波のように押し寄せた。だがメラメドはなぜか市場を閉じようとしなかった。謎が解けたのは二度目のワシントン勤務の時だった。
「わたしがスギハラ・サバイバルだったからだよ」――。
メラメドはこう語った。
ポーランド系のユダヤ人だったメラメド一家は、ナチス・ドイツに追われて隣国リトアニアに辛くも逃れた。暫定首都カウナスにいた領事代理、杉原千畝が発給してくれた通過査証で命を救われ、シベリア鉄道を経て、ウラジオストクから敦賀に上陸したのだった。
ヒトラーとスターリンが君臨するふたつの全体主義体制から逃れたレオ・メラメドにとって、自由な経済システムは命にも等しく、マーケットを閉ざすなど考えられなかったという。スギハラ・サバイバルの申し子はいま、自由な市場経済に人民元を取り込み、一党独裁の中国をも変貌させようとしている。
レオ・メラメドがいまも大切に持っている通過査証には、杉原千畝というインテリジェンス・オフィサーの痕跡がくっきりと刻印されている。本書の「メラメド・パート」で歴史探偵、白石仁章は、公電や公信を丹念に読み解き、杉原の素顔にひたひたと迫っている。
杉原が発給したヴィザを携えた夥しいユダヤ難民は敦賀港に次々に上陸し、日本の役人たちを慌てさせていた。最終渡航先の上陸許可、受け入れ家族、十分な渡航費などの条件を満たした者を精査して選り抜き、厳格に通過査証を発給せよ。外務本省はこう命じる電報第22号をカウナスに打電している。
そうした厳命を受けながら、なおヴィザの大量発給を続ければ、訓令違反の烙印を押されかねないと杉原は懼れた。外交官の身分を失うかもしれないと我が身を慮ったのではない。電報第二二号を無視すれば、本国政府の命令に逆らった効力なきヴィザと宣告されてしまう――インテリジェンス・オフィサーの研ぎ澄まされた勘はそう告げていたのだろう。
訓令に反していると断じられれば、ヴィザを持ったユダヤ難民が上陸できなくなる。本省の意向は無視していないと装わなければ――。その果てに杉原が編み出したのが「特殊措置」なるものだった。ウラジオストク港から日本行きの船に乗るまでの間に最終渡航先の入国許可を取り付け、日本からの船便の予約を完了することを約束させたとする「特殊措置」こそ、杉原が知恵を絞り抜いた「奇跡のイリュージョン」だったと白石仁章は喝破している。
杉原千畝がスターリンのソ連に呑み込まれたリトアニアを去って、プラハの総領事館に着任したのは1940年9月初旬だった。チェコスロバキアはすでに解体されて一年半が経ち、ナチス・ドイツの恐怖の支配が隅々にまで行き渡っていた。杉原の在勤期間は翌41年2月末までわずか半年に満たなかった。杉原はここプラハでもユダヤ難民のために日本への通過査証を発給していた。だがカウナスに較べてその数は少なく、プラハでのヴィザ発給は語られることもなかった。白石は「プラハにおける杉原千畝」にも新たな光を当てている。
外務本省への杉原報告によれば、プラハに着任した1940年9月から翌41年1月までに42人にヴィザを発給している。白石はこれを「第二のヴィザ・リスト」と名付けている。このうち37人がユダヤ人だった。続いて外務本省へ送られた報告にも37人の名前が載っている。このうち7人は先の「第二のヴィザ・リスト」と重複しており、残る30人のうち、日本に赴任する外交官を除けば、29人がユダヤ人だ。いずれも最終渡航先は「上海」と明記されている。白石はこれを「第三のヴィザ・リスト」と呼んでいる。
第三のリストには、カウナスの第一リスト、プラハの第二リストとは異なり、詳細な「査証調書」なるものが添付されていた。この第三リストには、後にアメリカで著名な国際政治学者となるジョン・ステシンジャー博士の一家が含まれていた。博士はオーストリアのユダヤ人で、ナチス・ドイツに併合された祖国から両親に伴われ13歳の時にプラハに逃れてきた。ここからソ連邦を通過して上海に渡航を試みたのだが、日本の通過査証がなかったため許されず、再びプラハに戻らなければならなかった。
スギハラという日本の外交官がユダヤ難民の願いを聞き入れてくれるらしい――そんな噂を聞きつけて杉原のもとに駆けつけた。すでにヴィザの発給を待つ長蛇の列ができていた。数日待たされた末にようやくヴィザを手にしたという。この証言には杉原がプラハで行ったヴィザ発給を解き明かす鍵が隠されていると白石は考えた。
一縷の望みをスギハラ・ヴィザに託すユダヤ難民が、外務本省が求める厳格な渡航の条件など満たしているはずはない。杉原はそれを承知でヴィザの発給を続けた。発給条件を満たしたユダヤ人のリストには詳細な「査証調書」を付け、条件を満たしていないユダヤ難民は敢えてリストに載せずに密かにヴィザを発給していたのではないか――と白石は読んでいる。当時のプラハはナチス・ドイツの完全な支配下にあり、日本にとってナチス・ドイツは三国軍事同盟を結んでいる真正の同盟国である。それだけにカウナスの時よりさらに慎重に振舞う必要があり、瞬時の隙も見せられない状況下で作業を行った。スギハラ・ヴィザの紙背には全体主義への反感が燃えさかっていた。
杉原千畝を急きょリトアニアに赴かせたのは、1939年の5月に中央アジアの草原で勃発したノモンハン戦争だった。スターリンは猛将ジューコフに指揮をとらせ、ソ連赤軍の精鋭は大規模な攻勢に出た。北方の脅威が頂点に達しつつあった7月、対ソ・インテリジェンスの切り札として杉原に辞令が下ったのである。
カウナスに着任するまさに5日前の8月23日、スターリンはノモンハンで関東軍に痛打を浴びせたのを見届けて、ナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を結んでいる。北方の主敵と欧州の友邦が突如交わした「悪魔の盟約」は、日本外交の羅針盤を粉々に打ち砕いた。日本の統帥部はここから迷走につぐ迷走を重ね、真珠湾攻撃に突き進んでいく。南雲機動部隊がパールハーバーを奇襲したという一報に接したイギリスの宰相チャーチルは「われ勝てり」と叫んだという。
杉原千畝が「命のヴィザ」と引き換えに、全欧の情報網から掴みとった一級のインテリジェンスは本国統帥部に容れられなかった。スギハラ情報網を引きついだストックホルムの駐在武官小野寺信が発した「ヤルタ密約」の緊急電も、統帥部自ら破り捨てた疑いが濃い。沈黙の外交官の無念を噛みしめつつ、白石はスギハラ・ヴィザの軌跡を丹念に辿り、杉原千畝の素顔をみごとに復刻してみせた。21世紀の日本にも「傑出したインテリジェンス・オフィサーよ、再び」と願ってやまない。
(平成27年7月、作家・外交ジャーナリスト)