『ペルシア王は「天ぷら」がお好き?』言語と食の大海を旅する醍醐味巻末エッセイ by 高野 秀行

2015年9月25日 印刷向け表示
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本書は、スタンフォードのコンピューター言語学者が、食の言語を手掛かりに人類史を探究するという異色の一冊である。そして「食と言語」と聞いて黙っていられなかったのが、辺境をこよなく愛するノンフィクション作家・高野秀行さん。食べ物の語源に舌鼓を打ちながら、いつしか現在取材されている納豆の話へ。本書の巻末に掲載されている、高野さんのエッセイを特別掲載いたします。(HONZ編集部)

ペルシア王は「天ぷら」がお好き? 味と語源でたどる食の人類史

作者:ダン・ジュラフスキー 翻訳:小野木明恵
出版社:早川書房
発売日:2015-09-17
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世界のあちこちを30年近く旅してきたが、最近、人間集団──大きいものは国民や民族、小さいものは家族や学校まで──の内面的なアイデンティティを形作る三大要素は「言語」「食」「音楽(踊りを含む)」ではないかと思うようになった。

私自身、外国へ行って「なつかしい」と思うのは日本語、日本食、昔なじみの歌などであるし、多くの国の人もそうであるように見える。

ならば、食と言語の組み合わせが面白くないわけがないのだが、一つ問題なのは、この手の語源話はあまり当てにならないものが多いこと。記録に残っているものはごく一部だから追究が難しいのだ。とくに国や言語グループをまたぐと難易度は飛躍的にあがる。一人の研究者や文学者の手に負えないのだ。

だから食の語源には要注意──と思っていたところで、本書に出会ってしまった。

本書は「言語と食」という大海を豪華クルーズ船で縦横無尽に航海するような、いわば夢の旅行記である。

一流の言語学者である著者が自分の所属するスタンフォード大学の学生や研究者仲間の協力をえて、あるいは最新のデータベース、コンピュータ解析(著者はコンピュータ言語研究の第一人者であるという)を駆使して、現在、世界的にメジャーとなっている料理や食べ物を研究している。語源についての本はいくらでもあるが、こんなに言語学的に厳密かつ包括的に研究執筆された本は稀だろう。読者はこの立派な船に安心して身をゆだね、心ゆくまで時代と空間を越えた大航海を楽しむことができる。

例えば、「天ぷら」がポルトガル人によってもたらされ、その言葉もtempero(調味料)というポルトガル語に由来するという程度なら、広辞苑などのさまざまな辞書や本に書かれているが、実は6世紀ササン朝ペルシアで皇帝に好まれた「シクバージ」という具だくさんの牛肉料理が原型だなどと言われると驚くしかない。

それが10世紀のアラビア半島(オマーン)や13世紀のエジプトでは名前はそのままで魚料理にすり替わり、やがて地中海を経由して現地のさまざまな地元食材と合流し、全世界に広がる。日本に行ったものが「天ぷら」、イギリスに行ったものは「フィッシュ・アンド・チップス」、南米にわたったものは「セビーチェ」といった具合に。

論証に使われている言語も、アラビア語、中世ペルシア語、カタルーニャ語、ロマンス語、オクシタン語、シチリア語、ナポリ語、ジェノヴァ語、ラテン語、スペイン語、日本語、英語……と膨大なものである。およそ個人旅行ではかなわぬ旅であり、贅沢なことこのうえない。

「ケチャップ」のあとをたどるクルーズにも感動した。もとは福建語のke-tchapという言葉で、魚醤を意味したという。keは何か魚を表す漢字、tchapは「汁」という漢字であるという。言ってみれば「魚汁」(「魚」はてきとうに当てただけ。念のため)なのだ。中国南部や東南アジアの魚醤は私にたいへんなじみ深い食品だ。タイのナンプラーやベトナムのニョクマム、ミャンマーのンガピもその一種だ。あれがケチャップだったとは。

16世紀にはヨーロッパ人の船乗りや商人が米の焼酎を飲みながらこの魚汁を飲んでいたというから、なにやら痛快である。ちなみに、今ではケチャップの主体となっているトマトがレシピに加えられたのはやっと19世紀だからいかにも遅い。しかもトマトだって言うまでもなく南米原産。本書を読むと、ヨーロッパの食文化がいかに歴史の浅いものであるか、また中国やイスラム圏の影響がいかに大きかったかがよくわかる。

本書の意義はここにある。ただ語源やレシピの歴史をたどるだけなら、それは雑学の域を出ない。でもここまで徹底してやれば別のものが浮かび上がる。それは古代から連綿と続く人と文化の交流史である。

人間集団は言語と食にこだわるが、いとも容易(たやす)く他人のそれを取り入れたりもする。そして、ほんの百年か二百年がたつとすっかり「昔からうちの伝統料理です」みたいな顔をする。グローバリズムを捨象し、ナショナリズムに傾く。天ぷらや寿司然り、フィッシュ・アンド・チップス然り、ケチャップ然り。

いや、それを否定するわけじゃないけれど、もっと大らかに世界を見ようよと言いたくなる。

今、私が取材している納豆もそうなのだ。「日本独自の伝統食品」と思い込んでいる人が多いが、実は東南アジアからヒマラヤにかけての内陸部でも広く食べられている。中には「納豆はわれわれのソウルフード」と呼び、日本人よりはるかに熱心に食べている民族も複数存在する。

ご飯にかける一辺倒である日本に比べ、アジア各地の納豆は調理法も多様だ。乾燥させてせんべい状にしたり、カレーに入れたり、味噌のようにしてもち米につけたり、麺類に入れたりする。日本は「納豆後進国」とさえ言えて、日本人の納豆観はガラガラと音を立てて崩れていく。

私たちが知らないのは外国の納豆だけではない。肝心の日本の納豆でさえ、調べてみると知らないことだらけだった。例えば、われわれ日本人が納豆をご飯にかけるようになったのは、つい幕末の頃だという。その前はもっぱら納豆汁として食べていたから驚きだ。ついでにいえば、大阪の人はもともと納豆を食べないとよくいわれるが、実は生粋の大阪人である千利休は納豆汁が大好きで、秀吉や細川幽斎に茶の湯の席でせっせと振る舞っていた。日本人は昔から同じように納豆を食べていたわけではない。時代とともに変わり続けているのだ。

取材するうちに、「納豆の起源と変遷を解き明かしたい」という野望にとらわれるようになった。だが実際に始めて見たら想像以上の難しさだ。

まず「納豆」という言葉の意味が不明だ。「納所(なつしよ)(寺院の台所)で食べられたから」などと説明されることもあるが、まったくの推測である。「納豆」という字面からもやまと言葉とは思えないので中国起源だと推測する説もあるが、実は「納」を「な(っ)」と読むのは呉音、「豆」を「とう」と読むのは漢音である。両方とも呉音なら「な(っ)ず」、両方とも漢音なら「のうとう」と読まなければいけないらしい。呉音と漢音は日本に伝わった時代がちがうのでこの言葉が中国から直接もたらされた可能性はひじょうに低い。

「もしかしたらアイヌの言葉なのでは?」と私は思ったが、アイヌ学者に訊くと「少なくとも今のアイヌ人は納豆を食べず、納豆にあたるアイヌ語もない」と言われて頓挫した。

もう一つ、話をややこしくしているのは、名称と中身のズレだ。文献上の「納豆」がすべて、ネバネバの糸引き納豆を意味しているならいいが、現在「浜納豆」や「塩納豆」などの名前で知られるしょっぱくて糸を引かない豆を指していることが多々ある。こちらは納豆菌でなく麹菌による発酵だし、形状も味もまったくちがう。食べ方は納豆汁ではなく調味料的な使い方だったらしい。でも昔の文献にはどちらもただ「納豆」と書かれているから混同する。

もしかしたら、と私は思う。「納豆」という名称とあのネバネバ食品はもともとアジア大陸の “本場”の納豆民族から納豆がもたらされ、のちに浜納豆などと混同されて「ナットウ」と呼ばれるようになったのかもしれない。

また、朝鮮にも「チョングッチャン」という納豆があるが、日本の納豆との関係は今のところまったく不明だ。誰も研究している人がいないのだ。なぜ納豆が極東の日本と朝鮮、それから熱帯アジアの内陸部だけに残されているのかも大いなる謎である。

それを解き明かせば、納豆を中心としたアジアの民族や文化の動きが巨大な地殻変動のようなダイナミックさで見えてくることだろう。それは「納豆は日本独自の伝統食」という(間違った)思考で止まっているよりはるかに豊かなことにちがいない。

でもなあ。それは私一人では無理だ。やはり、本書の著者ダン・ジュラフスキー氏に登場いただきたい。日本語学、中国語学、チベット・ビルマ語族やタイ・カダイ語族、ミャオ・ヤオ語族あるいはアイヌ語や朝鮮語を専攻する言語学者、さらにはそれぞれの地域を専門とする歴史学者や比較文化学者などとオールスターチームを結成して超豪華客船を仕立ててほしい。私も雑用係くらい務めよう。

「一緒に納豆大航海に出かけましょう!」とお誘い申し上げたい次第である。

世界の辺境とハードボイルド室町時代

作者:高野 秀行
出版社:集英社インターナショナル
発売日:2015-08-26
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