20年ぐらい前になるだろうか。石川九楊の「書とはどういう芸術か」(中公新書)を初めて読んだ時、書道に対する物の見方が180度変わったことをよく覚えている。本書は、その時に勝るとも劣らない知的でかつ心地よい「衝撃」を与えてくれた痛快極まりないかつそれでいて骨太で本格的な書道論である。書に興味のある人には、必読だろう。
本書は、いくつかのユニークな特徴を持っている。まず、日記のようにすべてが一人称で書かれている。次に、全体が60章から成っており、とても読みやすい。しかも各章の文章が見事に彫琢されており、簡潔この上ない。章のタイトルもこれが書の本かと見紛うほどだ。いわく「群盲象を撫ず」「人間は万物の尺度である」「バスでの悟り」等々。最後に、ほぼ各章毎に添えられた多数の図版がこれまたすばらしいのだ。例えば「筆法は書写時の姿勢により完成する」ことが、添付の絵画を見た瞬間に了解されるのだ。
ところで本書は、読書文人の家に生まれ育ち既に44年書を習ってきた著者が、古来の書の「原点」を尋ねたものである。書体が変遷するのは間違いなく「便捷(簡便さ)」を求めてのことであるが、「便捷」とはいったい何を指しているのか、ここから深求の旅が始まる。著者は「永字八法」に疑念を抱く。筆法を論じるには執筆法を理解しなければならないし、筆法を用いて文字を書いてこそはじめて「書法」といえると著者は考える。もちろん道具(毛筆や紙など)の分析も欠かせない。机という支えができ便利になったが故に、紙を手に持って書写する「古法」は失われていったのである。
魏晋時代、「二王」書風の登場は筆法と視覚の完璧な統一によって書が「完法」の過程を迎えたと著者は考える。唐代は「法」の最高峰が5-600年間も持続した「尚法」の過程。机や椅子が書写に広く使用された宋代以降は「変法」の過程と言えるだろう(「無法」も忍び寄るが)。日本の書道史や源を同じくし切り離すことのできない中国絵画論にも筆は及び最後まで興趣は尽きない。楷書(正書、真書)が唐より約500年も前に完成していたこと、正書をくずして行書が最も遅くに成立したこともよく理解できた。
巻末に、8点の著者の書道作品が掲載されているが、どれもほれぼれとするほど端正で美しい。もちろん、「蘭亭集序」もある。「例外」や「無用」ブランドを立ち上げたファッションデザイナーの馬可も本書の著者、孫暁雲も女性である。中国でも女性が大活躍する時代が間違いなく来ているようだ。
出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。
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