「どこか遠くの島にでも行きたい」。そんなことを今夏も考えていたが、行けぬままにすでに9月も半ば。そんな悶々とした気分をさらに悶々とさせてくれるのが本書だ。離島にまつわるエピソードを交えながら、写真が並ぶガイドブックなのだが、紹介する33の島々は実は行きたくても、行けない島々。定住者もいないし、定期船など交通機関も存在しない。近づくことすら難しい島もある。
「住民がいない」、「行けない」、「知られざる歴史を秘めている」、「孤島感がある」、「遠く離れた感がある」、「もの言いたげな佇まい」の5つの視点から、著者のお眼鏡にかなった島々を取り上げる。
実際、取り上げている島々は行くのが難しいのを承知でも、ひと目見たくなる魅力にあふれる。噴火に噴火を重ね、誰にも気づかれないうちに面積の拡大を続ける「西之島(東京都小笠原村)」。石炭の掘削で栄えたものの、土砂の流出や島の沈下で岩礁2つにだけになってしまった「横島(長崎市香焼町)」。かつては東西330メートル、南北61メートルの大きさの島が、現在の面積は0.002キロ平方メートルまで縮小したというから驚きだ。
「人跡ほぼ未踏」の地は「南硫黄島(東京都小笠原村)」。円錐形の切り立ったピラミッド型のため、平地はなく、上陸できそうな場所がほとんどない。もちろんかつて定住した人もいない。
本書で唯一、公共交通機関で行けるのが「奇岩(沖縄県宮古島市)」。宮古島の島尻漁港から定期船で10分。大神島の海岸沿いに点在する、奇妙な形をした岩の総称だ。もはや「秘島」でなく岩だけれども
「幻の島」まで登場する。1908年から46年の38年間だけ、日本の領土として正式に認定され、北緯30度05分、東経154度02分に「存在」していた「中ノ鳥島」。この不思議な現象は、当時、企業や個人が南へ南へと資源の権益を求め、島探しに躍起になって一攫千金を狙った「でっちあげ」が、帝国主義的な風潮と重なり、政府の勇み足で領有宣言につながったのではと著者は指摘する。
本書が通常の島モノの写真集と違うのは、写真と解説の「ガイド編」に加えて、秘島を楽しむ「実践編」が併せて収録されている点だ。行けそうにない秘島を楽しむ15の秘策を挙げている。
例えば「本籍を移す」。本籍は正確な地番を調べて所轄の自治体に届ければ変更できる。住めなくても、行ったことがなくても、秘島を本籍にすることで心理的なつながりを感じられるのではと提案する。沖ノ鳥島(東京都小笠原村)に本籍を置いているのはは約220人、北方領土123人、尖閣諸島約20人、竹島約50人(2011年現在)。このうち、竹島は2012年には88人に増えており、領有権問題の浮上から尖閣諸島なども増えているのではと著者は指摘する。ちなみに竹島の地番は「島根県隠岐の島町竹島官有無番地」とか。
とはいえ、本人死亡時の相続登記など煩雑な問題もあるとのこと。個人的には、ここまでやる人は漁船でも使って秘島に上陸してしまうのではと考えてしまったが。
「秘島の『最寄』有人島まで行ってみる」という非常にアグレッシブな楽しみ方もある。「最寄」といっても遠い。硫黄諸島や沖ノ鳥島、南鳥島の最寄の母島までは東京の竹橋桟橋から船旅で28時間。もちろん、その先に航路はないし、秘島の島影も見えない。でも、近くまで行くだけで肌で「何か」を感じることができるとすすめてくる。
「あまりにも行動的過ぎて、全く参考にならない」とインドア派には嘆かれそうだが、「実践編」は上記で挙げたもの以外は実は想像力を使った楽しみ方だ。「日本の漂流記を読んでみる」、「島に流れた汗を想像する」、「浜辺の漂着物をチェックする」、「Google Earthでヴァーチャル上陸を試みる(著者のおすすめは八丈小島、鳥島、黒毛島、入砂島、沖大東島)」など。
吉村昭の『漂流』(吉村昭)やら『鳥島漂着物語』(小林郁)などを読み、尾崎放哉の俳句で弧絶を味わう。誰もいない島。助けも来ない島。遠い地のかつての漂流者や、定住者の生活、資源獲得競争に翻弄された歴史、戦争の影響などに思いをめぐらせる。
そこには、人の営みが凝縮されている。秘島で暮らした日々の愉しさや、苦しさ、哀しさ。国家や組織の思惑と、翻弄される島民の思い。秘島の歴史から見えてくる、夢のあと、人の世のはかなさ。そんな秘島の栄枯盛衰は、今の僕らを揺さぶってくる。時代を超えて、「今、ここ」の在りかたを揺さぶってくる。
上陸できなくても、想像して感じることはどこにいてもできる。それこそが「秘島旅」であると著者は語る。そして、秘島旅でしか味わえない醍醐味なのだ。