人と人が出会う。ある時、ある場所で、お互いに限られた人生の一部がなんの因果かたまさか交わる。折に触れて言葉を交わす。問い、問われ、考える。そんなことでもなければ思いもしなかったかもしれないことが脳裏に兆す。その出会いがなかったら、いまの自分はこのようではなかった。そう思われる出会いというものがある。
本書は、1980年代はじめに若き物理学徒だったレナード・ムロディナウが、カリフォルニア工科大学で出会ったファインマンや同僚たちとの交流を描いた回想録である。原書はFeynman’s Rainbow: A Search for Beauty in Physics and in Life (Warner Books, 2003)。そのまま訳せば『ファインマンの虹――物理と人生に美しいものを求めて』となろうか。あなたがいま手にしておられるこの本は、かつて『ファインマンさん 最後の授業』(安平文子訳、メディアファクトリー、2003)として刊行された訳書の文庫版である。
説明の便宜上、つい「回想録」と書いたけれど、この実に味わい深い本の魅力をお伝えするには十分ではない。なにしろ本書は、それぞれに興味の尽きないいくつもの要素によって織り上げられた書物だからだ。
例えば、この本は、天才物理学者リチャード・ファインマンの晩年の様子を描いた評伝でもあり、量子論やひも理論の展開など、物理学史の一齣を捉えた科学史の記録でもある。あるいは大学における物理学者たちの日常を描いた一種の職業ルポルタージュとして、とりわけファインマンとマレー・ゲルマンという二人の優れた物理学者の発想や手法を対比した考察として読むこともできる。そしてなによりも、自信がなく将来への不安を抱くムロディナウ青年が、ファインマンたちとのやりとりを通じて変化してゆく様子を捉えた青春ドラマ、一種の教養小説(ビルドゥングスロマン)であり、老師と弟子の学問と人生をめぐる対話篇でもあるのだ。
だからもし仮にあなたが、ファインマンやムロディナウのことをよく知らなくても、あるいは物理学の歴史にさほど関心がなかったとしても、人生の機微をよく描いた一篇の物語を読むように、あるいは日常を豊かにするための手がかりを与えてくれるエッセイとして楽しめると思う。
以下では、ムロディナウがファインマン先生との対話から学んだことのうち、三つのポイントに絞って触れてみたい。いずれも科学(や学術)と人生の双方に大きくかかわる要点である。
レッスン1――想像力
自分には科学者になる資質や資格があるだろうか。深刻に悩むムロディナウ青年の問いかけにファインマン先生はざっくばらんに答える。
科学者を、そんなに難しく考えるなよ。(略)僕には、普段の暮らしと科学者の研究に大きな違いがあるとは思えないな。(本書58ページ)
ただ、科学者に普通の人と違う点があるとすれば、来る日も来る日も同じ問題について考えること、その問題が解けるまで何日でも何年でも粘り強く考え続けて、とことん徹底的に想像力を働かせることだ。問題、問うべき課題を頭の片隅に放り込んで、その分からない謎と暮らす。何かが分からないことは、どうかすると悪いこと、苦しいことだと思う向きもあるあもしれない。しかしそうではなく、むしろ分からないものを抱きしめて、じっくりと付き合い、楽しむわけである。強調のためにここではモンダイと書いておこう。
では、モンダイに取り組む際、なぜ想像力が必要なのか。例えば、こんなふうに考えてみるとよい。チェスや将棋が上手な人は、これらのゲームで課されるモンダイとどう取り組むか。いま目の前にある盤面を睨み、対局相手について考え、脳裏にある過去の棋譜を探る。この盤面から生じうるさまざまな可能性について、あれこれ見方を切り替えながら検討する。以上のことを、棋士は盤面を動かすことなく、その盤面を離れて、脳裏で、想像の力によって行う。科学のモンダイに取り組む際も同様である。ファインマン先生は言う。だって「すべての電荷は整数のはずだ」といった考え方や思い込みから自分を解放するためには想像力が要るだろう?と。
私たちは未知のものに出会った際、過去の経験を手がかりにする。そしてしばしば既知のことや固定観念に囚われて、物事を見損なってしまう。例えば、新しいアイディアや作品に出合った時、その意味や価値を見逃してしまうように。想像力とは、そうした固定観念の重力からいったん自由になって、別の可能性を発見するための羽のようなものなのだ。
レッスン2――好奇心
なぜファインマン先生は人を惹きつけるのだろう。ムロディナウはこう考える。
大人になって何年も経っているというのに、さらに死と向き合っている時でさえ、ファインマン先生は子供であり続けたからだ。いきいきとして、陽気で、いたずら好きで、ちゃめっ気があって、好奇心旺盛で、そして何でも“おんもしろがる”人だった。(154ページ)
人は経験を重ね、物事を知るにつれて、「分かっていること」も増えてゆく。ともすると知っているつもりでいることについては、いちいち詮索したりせず、思考は停止する。思考から遊びの余地が消えると言ってもよい。そこで、時として素朴な子どもの質問に問い詰められたりすることになる。「ねえ、海の水はどうして辛いの?」「海の水にはお塩が入っているからだよ」「どうしてお塩が入ってるの?」「それは……」自分で考えたり想像してみたことのない問いに答えるのは存外難しい(これについては伊丹十三『問いつめられたパパとママの本』という名著がある)。
子どもであり続けるとは、好奇心を持ち続けることだ。物事を当たり前と思わず、不思議に感じること。いつも面白いと思える問題を抱えていること。哲学者が嫌いだったファインマン先生としては、甚だ不本意かもしれないけれど、これは言葉の本来の意味での哲学(philosophy)の営みである。語源である古典ギリシア語に遡ってみれば、ピロソピアー、つまり知ることを愛好する営み、賢哲たることを希(こいねが)うことだった。そういえば、古代ギリシアの哲学者プラトンとその弟子のアリストテレスは、師弟揃って「哲学とは物事に驚くことから始まる」と言っていた。英語で言えば、Sense of wonder(驚く心)となろうか。
これは何も特別なことではない。場合を限ってみれば、多くの人が日常的に楽しんでいることでもある。例えば、古来現在に至るまで、人は物語を手放さず楽しみ続けている。古くは神話や叙事詩から始まって、演劇、小説、あるいは映画やゲームもここに含めて、広く諸芸術と言おうか。こうした創作物のほとんどは、「それで、次はどうなるの?」「これはなんなの?」という好奇心、知りたい気持ちを受け手にそそるからこそ楽しまれる。
科学をはじめとする諸学問と違うことがあるとすれば、好奇心の向く先だ。学問では、自然や人間について、まだ誰も解き明かしたことのない謎やモンダイに関心を持つ。芸術を味わう場合、誰かがこしらえたものに関心を向ける。例えば、一幅の絵でも、「これはなんなのだろう」と見切れない思いを維持すれば、見飽きることなく楽しめるように。
いずれにしてもファインマン先生のように、なんでも「おんもしろがる」ことができたら、さらには自ら楽しめる問題を見つけたり、つくりだせたら、人生はそれだけ楽しくなるに違いない。ファインマン先生は問う。デカルトはなぜ虹を研究したのだろうね。先生の答えはこうだ。彼は虹を美しいと思ったからこそ、その謎に取り組んだのだと。そんなふうにして自分にとっての虹を見つけることが、科学を、人生を楽しむコツなのである。
レッスン3――自己本位
ある論文を読んだムロディナウが、そこに書いてあることに「ついていけましたよ」と言うのを聞いたファインマン先生。
ついていけた? 誰かについていってるからって、正しい道を行っているとは限らんぞ。自分で演繹しないと。(略)そこで、初めて理解できるんだ。そして、やっと信じられるんだ。(182ページ)
既存の理論や知識について、その結果だけを受け取ったり鵜呑みにしたりせず、自分で腑に落ちるまで考えてみること。これは、効率を重んじて、最短距離で結果や果実だけを手にしようとする姿勢とは対極にある発想だ。例えば、高校までの物理や数学のように、誰かが考えておいてくれた公式を暗記して問題を解くのが効率重視の姿勢だとすれば、そもそもそのような理論や公式はどうすれば導出できるのか、ということを自分でも考え直してみるのがファインマン流である。
これは科学だけに通じる話ではない。はしなくもこんな主張が思い出される。「たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい受売をすべきはずのものではないのです」
これは西洋の文物が日本に移入され始めたころ、ロンドンに留学して「文学とは何か」という大モンダイと格闘し、考え抜いた夏目漱石の言葉だ(「私の個人主義」、1914)。漱石はこの境地を「自己本位」と呼んでいる。自己本位といえば、自己中心という否定的な意味もあるけれど、これはむしろ積極的な意味での自己本位である。単に人が考えたことの尻馬に乗って分かったことにして済ますのではなく、自分で考え抜いて腑に落ちたことを土台に据えること。そこからものを考えること。漱石はこのやり方に思い至ってから、それまで抱えていた不安も完全に消えて、自分が進むべき道をはっきり確信したと語っている。
ムロディナウもまた、ファインマン先生の自己本位の姿勢に触れて心に決める。「とやかく言う人もいるけれど、自分の虹をつかもう」。それこそが自由というものではないか、と。
ムロディナウのその後
ファインマン先生の謦咳に接したムロディナウ青年は、その後、自分の道を選ぶに至る。周囲の人びとのふるまいや眼を気にして、いわば他人本意の発想によって不安を抱えていた青年が、積極的な意味での自己本位に目覚めたわけである。大事なことは他人からどう見られるかではない。本当のところ、自分がどうしたいかだ。
この決意は、後の彼の歩みにも表れている。ムロディナウは物理学者として出発し、研究に従事した後、物語を創造するシナリオライター、さらにはポピュラーサイエンスの作家となった。もし彼が本書に書かれたような、ファインマン先生との交わりを持たなかったら、どうなっていただろう。考えてみても詮無いことではあるけれど、ひょっとしたら私たちがこの本を読むこともなかったかもしれない。
なお、ムロディナウの詳しい経歴や活動については、本人のウェブサイトで、シナリオライターとしての作品についてはIMDbで確認できる(URLはいずれも本稿執筆時点で確認)。
最後にムロディナウの著作を一覧しておこう。いずれの本も、本書で示されている物語作家としての腕前が遺憾なく発揮されている。刊行年順に並べる。また、邦訳がある場合、現時点での最新版の書誌を添えた。
・Euclid’s Window: The Story of Geometry from Parallel Lines to Hyperspace (2001)
『ユークリッドの窓――平行線から超空間にいたる幾何学の物語』(青木薫訳、ちくま学芸文庫、2015)
・Feynman’s Rainbow: A Search for Beauty in Physics and in Life (2003)
『ファインマンさん 最後の授業』(安平文子訳、ちくま学芸文庫、2015)本書
・The Kids of Einstein Elementary: Titanic Cat, with Matt Costello and John Nash (2004)
・The Kids of Einstein Elementary: The Last Dinosaur, with Matt Costello and John Nash (2004)
・A Brief History of Time, with Stephen Hawking (2005)
『ホーキング、宇宙のすべてを語る』(スティーヴン・ホーキングとの共著、佐藤勝彦訳、ランダムハウス講談社、2005)
・The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives (2008)
『たまたま――日常に潜む「偶然」を科学する』(田中三彦訳、ダイヤモンド社、2009)
・The Grand Design, with Stephen Hawking (2010)
『ホーキング、宇宙と人間を語る』(スティーヴン・ホーキングとの共著、佐藤勝彦訳、エクスナレッジ、2011)
・The War of the Worldviews, with Deepak Chopra (2011)
・Subliminal: How Your Unconscious Mind Rules Your Behavior (2012)
『しらずしらず――あなたの9割を支配する「無意識」を科学する』(水谷淳訳、ダイヤモンド社、2013)
・The Upright Thinkers: The Human Journey from Living in Trees to Understanding the Cosmos (2015)
最新著の『直立した考える人(The Upright Thinkers)』は、人類がいかにして好奇心にとらわれ、想像力を駆使し、学問を発達させ、直に感覚できるものをも越えて、ついには量子論のような知にまで至ったのかという次第を描いている。まさに本書に描かれたように、好奇心に突き動かされて自然の謎と人生を楽しんだファインマン先生の生き方に通じる内容を扱っている。
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それにしても、この本を読みながら思う。人生において誠に得難いものがあるとすれば、それはよき対話相手ではなかろうか。話題はなんであれ、自分が抱えているモンダイに興味を持って耳を傾けてくれる人は、いつでも簡単に見つかるものではない。とりわけ、ファインマン先生のように面白いモンダイに目がない人とあってはなおのこと。とはいえ、そんな人がなかなか見当たらないからといって嘆くことはない。いっそこう考えてみてはどうか。まずは自らが誰かにとってそういう存在になってしまえばよいのだと。
また、道に迷ったら、そんなときにはこの本に戻ってみよう。不安に苛まれるムロディナウ青年の変化や、我が道をゆくファインマン先生の姿に触れているうちに、視界も開けてこようから。合い言葉はこうだ。いつも心にモンダイを、遊び心を忘れずに。
2015年7月21日