1939年に発生したノモンハン事件は多くの人間と国の運命を変える事になる。当事国である日本もソ連も、そして第二次世界大戦の引き金を引くことになる独裁者ヒトラーもこの国境紛争がそれほど重大な意味を持つようになるとは当時は気づいていなかっただろう。だが、まずこの紛争で一人の男の運命が大きく変わる。
その男とはソ連労農赤軍の将官ゲオルギー・ジューコフだ。スターリンにより1937年から吹き荒れ当時も継続して行われていた赤軍大粛清で、ジューコフも告発を受けていた。当然、彼は自分も「人民の敵」として粛清される日も近いと感じていた。モスクワへの出頭命令が届いたとき、彼は妻に別れの手紙を書いたほどだ。しかし、モスクワで待っていたのは予想外の命令だった。彼に与えられた命令は、国境で挑発行為を続ける日本軍を撃退せよというものだった。そして彼はそれを見事に果たし、英雄として凱旋することになる。
第二次世界大戦というと、あまりにも有名な歴史的事件であるため、ついこの戦争の事を知っているような気持になってしまう。私自身、この戦争を扱った多くの本を読んできたために、そんな気持ちでいた。それでも本書は私に大きな驚きを与えた。なにしろ大きな戦争のため、まだまだ知らないエピソードや戦場の悲惨な体験が無数に記載されている。
また政治や戦略といった大局的な視点と個々の戦場での兵士や民間人の物語といったミクロの視点がテンポよく交差することで、政治家の決定がどのように兵士たちの生死に直結していくかがわかりやすく描かれている点も読んでいて興奮覚える。
上記のジューコフの一件もそうであろう。日本軍の場当たり的な行動がノモンハン事件を発生させ、粛清の危険が付きまとう男の運命を大きく変えた。ジューコフはその後にドイツとの戦争で重大な役割を果たすことになる。
ジューコフは装備の面で劣るソ連軍がドイツ軍に対抗するには大量の兵力を怯むことなくぶつける事であると認識していた男だ。そのために多くの赤軍兵士が十分な兵器も持たず、ドイツ軍に対し死の突撃を敢行することになり、おびただしい数の死者を生むことなる。しかし、犠牲をものともしない攻撃の連続によりドイツ軍はモスクワへの道を阻まれることになる。ジューコフ将軍の常勝のドラマは、破った敵の数よりも多い自軍兵士の血で書きつづられているのだ。
赤軍兵士の受難はさらに続く。スターリンが行った大粛清により、将校の多くが部隊を率いて前線で戦ったことのない者たちであったために、戦場は混乱を極め、多くの兵士が犬死したという。また、NKVD(内務人民委員部)による、敗北主義者狩りやドイツの第五列狩りなどで多くの兵士や市民が処刑されている。軍の将校も彼らを恐れ、敗北の責任を押し付けられる事を嫌い、無謀な攻撃や現実にそぐわない司令部からの指示を無理やり敢行したために、多くの兵士が無駄死することになる。
赤軍兵士と言っても戦争が始まった際に無理やり駆り出された市民であり、彼らは満足な訓練すら施されていなかった。このため逃亡者や無許可の退却が相次ぎ、政治将校らによる督戦隊が組織されることになる。彼らは許可なく後退する兵士たちに機銃掃射をくわえた。赤軍兵士たちは進むも地獄、引くも地獄という状態であったという。スターリン、ジューコフ、ベリヤといったソ連の要職に就く者たちが、自国民に見せる非情ぶりに読者は間違いなく恐怖感を抱くであろう。
スターリンの強迫観念にも似た被害妄想が赤軍を蝕んでいたわけだが、彼の罪はそれだけではない。「バルバロッサ作戦」が発動されドイツ軍がソ連領に侵攻した際に、スターリンはなかなか事実を認めようとせず、そのために壊滅的状況をまねいてしまう。ソ連がなんとか持ちこたえていたのはジューコフらの働きがあったためだ。
スターリンは初戦の壊滅状況の責任をジューコフらになすり付けようとしたが、彼らに反論され別荘に引きこもってしまったという。指揮権を放棄して引きこもってしまった指導者に政治局の面々は困惑しながらもスターリンを呼び戻すべく、彼のもとに駆けつける。スターリンは数日の内にげっそりとやせ細り、部下たちに粛清されるのではないかとビクついていたという。
対するヒトラーはソ連侵攻を「これはある種の間引き戦争なのだ」「指揮官たるもの、良心の呵責に拘泥しない覚悟が必要である」とし、ロシア人たちを大量絶滅に追いやる考えを示唆していた。このため、捕虜になった赤軍兵士には食糧が与えられることはなく、屋根もなにもない空間が「捕虜収容所」として使われたと いう。食料もなく雨ざらしにされた彼はやがて衰弱して死に至る。
ヒトラーは「バルバロッサ作戦」の失敗に続き、1942年の「ブラウ作戦」が手詰まりになると周囲に心を閉ざすようになり、参謀らと食事をとることも握手を交わすこともなくなる。彼の命令は次第に現実の状況か らから乖離することが多くなり、象徴的な勝利を求め底なしの消耗戦となるスターリングラードの戦いに拘泥するようになる。このため無駄な血がさらに流れてしまう。
現実を認識する能力が不足したために被害が拡大したという点では、フランスもそうであろう。さらにフランス政府の「決められない」姿は、今の日本の政治に似ているのではと不安を憶える。
人類の歴史に、あまりにも大きな爪痕を残した第二次世界大戦は、今も国際社会のあり方と様々な国の関係を規定しており、その影響は多岐にわたる。この戦争がどの様なものであったかを知る事は、この戦争の上に構築された社会システムの上に暮す今の私たちに欠かせない知識であるのではないだろうか。
また戦争というものがひとたび始まれば、民主国家、独裁国家の別なく、その存亡をかけて兵士、民間人に多くの犠牲を強いるものであることが、本書を読むとよくわかる。巨大な権力機構というものは大なり小なり個人にとって理不尽な存在なのだろう。その事を改めて認識できるという一点をとっても本書を読む意義は大きいのでないだろうか。