言わずもがな、DNAの構造を明らかにした、いや、より正確には、DNAの二重らせんモデルを考えついた二人のうちの一人、ジェームズ・D・ワトソンの著書『The Double Helix』の新訳である。初版は1968年、DNAの構造発見から15年後のことで、以来、20カ国もの言葉に翻訳されている。
日本でも原著と同じ年に翻訳が出ているので、読んだことがある人も多いだろう。おそらく、科学ノンフィクションで、これほど多数の人に読まれた本はないはずだ。そして、これほど物議をかもした本もない。
単行本から文庫、ブルーバックスへと版を変えているが、初版から50年近くたっても出版され続けているという、科学ノンフィクションとして全く例外的な本である。どうしてそのような入手可能な本が新しく翻訳されたのかについては、翻訳者の青木薫さんがあとがきに書いておられて、HONZでも読むことができる。
よく知られているように、The Double Helixは、ワトソンが自分の記憶を頼りに書いた本だ。今回、あらためて読み直してみて、勝者の記録である、ということがよくわかった。歴史書というのは、勝った方が書くことになるので、すべからく勝者バイアスがかかってしまう。この本についても、もともとそういう批判が多かった。なにしろ、共に勝ち抜いた相方、フランシス・クリックでさえ、出版するのは止めるべきだとワトソンに強く申し入れたほどなのであるから。
メインテキストは、以前に翻訳された『二重らせん』と同じである。が、この本には大量の資料と注釈がつけられている。写真資料は貴重なものばかりだし、注釈の量は膨大だ。原注が218もあって、どれもえらく長いし字が小さい。その上、訳注まであるので、読むには少し骨折りだ。しかし、それらの注釈をあわせて読むと、記録の見え方が大きく違ってくる。
従前の『二重らせん』とちがって、今回の『二重螺旋』には、勝者だけでなく、敗者(というよりは当時の競争相手)や、第三者が残した記録が注釈に詳しくあげられている。ワトソンのひとりよがりな記録だけの『二重らせん』が直線的なものとするならば、注釈付きの『二重螺旋』は、二次元、いや、三次元的な広がりすら感じられる。
もちろん、真の歴史はどうであったか、という最終的な解釈は読者にゆだねられるわけであるが、ワトソンの記述はこうなっているけれど、違う解釈もできるのではないか、と考えながら読むのが楽しい。注釈を参照しながら読み進めるのもいいけれど、まず注釈を飛ばしてメインテキストを読んで、その後で注釈を読んでみるのもいいかもしれない。
注釈は、必ずしも科学的な内容ばかりではない。ケンブリッジ一の美男子のことなども長々と書かれている。なんでそんなもんがいるねん、と思わない訳でもないが、もともとの本文も研究以外の私生活がだらだらと書かれていたりするのである。クリックが最初に出版に反対した理由の一つは、『ゴシップばかり書かれていて、あまりにも知的内容に乏しい』であったほどなのだ。
当時の私たちにとって特別に重要だったことを含め、知的な内容はどれも省かれています。君の歴史観は、程度の低い婦人向け雑誌に見られるようなものです。
とまで罵倒したクリックは、こんな本は誰も読みたがらないだろうと思っていた。分子生物学の研究では、預言者のごとく、つぎつぎと研究の先行きを読み切ったクリックだったが、この判断は完全に間違えていた。
いろいろな科学者の伝記を読むと、ワトソンのことを嫌いな人が相当いることがわかる。愛情あふれることで知られていた女性ノーベル賞受賞学者リータ・レーヴィ=モンタルチーニでさえ、ワトソンのことはよく思っていなかった。2007年に差別発言で猛烈に批判されたことからもわかるように、ワトソンというのは、誤った考え方を持ったおかしな人なのかもしれない。
この本によっていちばんひどい書き方をされているのは、DNA結晶のX線回折写真を撮影し、意図したわけではないが、ワトソンに決定的なヒントを与えたロザリンド・フランクリンだ。The Double Helixがなければ、ロザリンド・フランクリンの名前は、研究者以外に大きく知られることはなかったであろう。今回の本を読んでも、すでに彼女が亡くなった後であったにもかかわらず、ワトソンがどうしてこれだけ悪し様に書いたのかは、やはりわからない。単なる勝者のきまぐれなのか。
フランクリンの名誉を回復すべく、友人であったアン・セイヤーが『ロザリンド・フランクリンとDNA-ぬすまれた栄光』という本を書いているが、これはかなり贔屓の引き倒し感が強い。もう一冊『ダークレディーと呼ばれて二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実』という好著がある。この本はきわめて慎重かつ公平にフランクリンのことを描いている。決してワトソンが書いたようなイヤな女性ではない。
『ダークレディーと呼ばれて』に悲しい一節がある。フランクリンの共同研究者であった人がThe Double Helixについて『この本は少なくともロザリンドが永遠に記憶されることを保証してくれた』と、フランクリンの母を慰めようとした。しかし年老いた母は、『こんなふうに記憶されるなら、いっそ忘れられたほうがましです』と答えたという。罪なことだ。
また、The Double Helixのことも含めて、この時代の分子生物学研究についての「正史」としては、科学歴史家ジャドソンによる『分子生物学の夜明け-生命の秘密に挑んだ人たち 上・下』がある。原題を『The Eighth Day of Creation(創造の第八日目)』というこの本は、名著中の名著、これほどすばらしい科学史の本はそうそう見当たらない。
ここにあげた本を読むと、ワトソンの書いていることが決して真実ばかりではないことがよくわかる。しかし、どれも残念ながら絶版だ。『二重らせん』を読んだことのある人もない人も、二重らせん発見の真実を学びたいならば、『二重螺旋』で本文と注釈をしっかり読まねばならんのである。
拙著であります。ロザリンド・フランクリンや、リタ・レーヴィ=モンタルチーニ、そして『分子生物学の夜明け』に、一章ずつさいています。ご興味のある方、これを機会にぜひ!