第2次世界大戦期、その獅子奮迅の働きぶりから「奇跡の戦闘機」と称賛された、零戦。数々のノンフィクション、小説、さらには映画の題材にもなり、活躍から70年以上がたった今なお広くその名をとどろかせている。
一方、おなじく大戦期に開発され、その驚くべき性能の高さから一時は「奇跡のエンジン」と呼ばれながらも、後に零戦とは真逆の運命を辿ることになる悲劇の発動機があった。零戦を擁する三菱重工とライバル関係にあった航空機メーカー・中島飛行機により開発された軍用機エンジン「誉」である。
運転試験を見届けた海軍がその性能を絶賛し、他のエンジンをさしおいてほとんどの新鋭機に搭載されるという異例の扱いを受けた「誉」。だが日米開戦の段になると、繊細な構造ゆえのトラブルに見舞われ、ついに「普通のエンジン以下」にまで性能は落ち込む。本書は問題が起こるまでの顛末を描くだけでなく、当時の時代背景やエンジンの技術的欠陥にまで踏み込んで、様々な観点からトラブルの原因究明を試みた意欲的な一冊だ。
「奇跡の戦闘機」がそうであったように、「奇跡のエンジン」にも天才設計者がいた。1940年当時、中島飛行機へ入社後たった4年が経過したばかりの弱冠27歳にして主任設計者を務めた、中川良一である。零戦を設計した堀越二郎よりも10歳年下の中川は、これまでの常識を打ち破る斬新かつ大胆な設計によって「誉」を生みだした。海軍高官の「中島で『誉』ができたので、三菱はもはやつくる発動機がなくなった」という発言からもその評価の高さがうかがえる。
しかし、当時の世界水準を超そうと極端な計量・小型化がほどこされた「誉」には弱点も多かった。高付加、高温、高圧、高回転といったすべての面で極めてデリケートなため、従来のエンジンより使用条件は厳しい。生産にあてる物資も人員も不足していく中で大量生産の要求にこたえるため「質より量」への転換が推し進められた当時の状況では、十分な力を発揮できなかったのだ。
機体工場の空き地や部隊基地には「誉」の搭載を待つ首なしの戦闘機がずらりと並んだ。無事に飛び立った後もすぐに問題が起き、工場へ戻らざるを得ないことも多々あった。当然、トラブルを気にするパイロットの神経も尖り、飛ぶことをためらうようになっていく。
「誉」はついにその真価を発揮することなく、不完全燃焼のまま終戦を迎えた。当初の賞賛はたやすく批判へと変わり、パイロット、整備関係者、戦闘機の設計者たちからは時に敗戦の象徴のように扱われることもあったという。
なぜ「誉」は失敗に終わったのか。中川本人へのインタビューによれば、100%の性能を発揮するためのエンジンの質を維持する環境が整っていなかった、というのが原因だという。確かに、供給される燃料の質が落ち、熟練工が次々と軍隊に召集され、無理な増産体制で品質を後回しにせざるを得ない、日米開戦後の特異な状況が関係したのは間違いないだろう。
だが取材を進めていくと、中川の話だけでは説明しきれない問題点がいくつも浮かび上がってきた。ここまで書いてきた内容は、本書の莫大な情報量からするとほんの豆粒みたいなものである。真の問題はもっと根深く、いくつもの要素が複雑に絡み合っていた。膨大な量の文献調査と30名を超す関係者へのインタビューを通して著者が「誉」問題の本質的な部分に迫っていくのが本書の醍醐味である。
中島飛行機の組織文化に一要因があると判断すれば、大戦にいたるまでの歴史や創業者の中島知久平の人生についてまるまる1章分80ページを割き、若手技術者による大胆かつ無謀な開発が奨励されたその風土について明らかにする。物的にも人的にも時間的にも無理な開発計画と、それを強要する軍や政府に問題があると考えれば、欧米諸国との比較に1章を当て、ゆとりある開発計画と、それを後押しする官民一丸となった動員体制の重要性を説く。
こんな調子であとがきを含めて文庫版550ページ超のスペースに網羅的取材の成果が散りばめられているので、レビューでは到底伝えきることができず、もどかしい。専門的になりすぎることを避け、割愛された内容も多々ある。こうしたボリュームに加え、「誉」を書くことに対する著者の執念が随所から伝わってきて、文庫本とは思えないほどの重みを感じながら読んだ。
本書は、太平洋戦争での日本軍の失敗原因を追究した名著『失敗の本質』のような雰囲気も持っている。心理描写や風景描写を最低限に抑えて事実を淡々と取り上げ指摘していく点や、あぶり出した「誉」問題の本質を日本の今日的課題へと結びつけていく点などはまさにそうだ。
一方で異なるのは、本書が組織論ではなく技術論に重心を置いている点である。実は、著者はノンフィクションライターに転身する前、20年以上ジェットエンジンの設計に従事していた元技術者なのだ。よって本書では「誉」エンジン設計者の意図や、どの部分にどのような欠陥があったのかという技術的問題にまで踏み込んだ解説がなされている。いわゆる戦記物とはまたひと味違った読み方ができるだろう。
もちろん既に書いたように、専門的になりすぎないよう配慮されているためハードルは高くないことを最後に念押ししておきたい。分析的な記述のところどころには、登場人物たちの人間模様も垣間見える。中川をはじめとする多数の関係者へのインタビューを通して得た生の声からは、当時「誉」をとりまいていた人々の熱気や期待や苦悩や失望がありありと浮かんでくるはずだ。今では中川を含め彼らのほとんどが鬼籍に入っているので、それらは貴重な証言でもある。
案外いちばん印象に残ったのは、厳しい制約にもめげずに技術者として理想のエンジンを追求し続けた中川の「がむしゃらさ」だったりする。その無謀さをさんざん指摘しておきながら、本章の最後を、彼への同情をみせる清々しい終わり方で締めている著者にも同種の感情があったのではないだろうか。
エンジン技術は「試行錯誤の蓄積や経験」によって一歩一歩発展していくしかない。そのことは中川も、折に触れて耳にしていたであろう。だがそれは、歴史家がエンジン史を語るときの、もっともらしい言葉としか思っておらず、みずからが推し進める目の前の「誉」は例外、と信じていたのだろう。
『悲劇の~』では中島飛行機の創業者・中島知久平の型破りな行動力と豪傑な人柄も存分に描かれている。実際に伝記も出ているほどの破天荒な人物だ。
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