長らく営業の仕事をしていることもあって、売上や原価といった数字管理はお手のものなのだが、我が家の家計のこととなると話は別である。自分が月々いくら本代に使っているのか知らない。エンゲル係数も知らない。家計簿をつけようとも思わない。自分でもよくぞ、おめおめと生きているものだなと思うが、自らの欲望の痕跡を直視することが恐いのだ。
このままではヤバいことくらい、分かっている。だが、どれだけヤバいのかを客観的に知りたければ、歴史に敵うものはない。そこで、本書である。
会計と歴史、双方の知見を持つ著者によって手掛けられた『帳簿の世界史』は、アダム・スミス、カール・マルクス、マックス・ウェーバーといった面々が口を揃えて主張した帳簿の力を紐解いた一冊。アクセスログやライフログといったログ全盛の現代社会に、帳簿という最も古典的なログの重要性を描き出す。
数多くの歴史で見られる光景のご多分に漏れず、帳簿の歴史もまた「やり直しのくり返し」であったと言えるだろう。めざましい会計の改革によって一定の成果を上げたかと思うと、いつのまにか怪しい闇の中に引っ込んでしまう。そんな螺旋階段を少しずつ上りながら、帳簿は進化を遂げてきた。
だが、他の歴史と一線を画すのは、これほど地味な存在でありながら、常にその時代に隆盛を誇っていたものに寄り添い、唯一対峙できるポジションに位置していたことである。そして、良質な会計慣行や商業文化が根付き、やがて消え去るまでのターニングポイントにおいては、いつも帳簿を司るものたちにジレンマが突き付けられていた。
14世紀のイタリアで巨万の富を築いたトスカーナ商人のダティーニ。彼の帳簿は既に複式簿記で記述されていたと言われ、この時代に近代的な会計と情報時代が誕生したことを示唆している。そんな彼が感じていたジレンマは、利益と宗教との狭間にあった。
なにしろ当時は、金を扱う職業や会計慣行の大半が教会法に違反するとされた時代のことである。彼は高利禁止令をすり抜けるために両替商で利益をあげ、その多くを貧困と根絶するための善行にも捧げたという。彼をしても金勘定は汚らわしいとするキリストの教えから、逃れることは出来なかったのだ。
フィレンツェ屈指の名家として知られるメディチ家。彼らが歴史の表舞台から姿を消していく過程にも、ジレンマは存在した。コジモ・デ・メディチを悩ませていたのは、商売に必要な会計知識と神聖なる学問のどちらをとるかということであった。
ルネサンス期に流行した新プラトン主義は、人間の栄光は芸術、文化、政治的業績に基づくとされ、現実的な商業は軽視される傾向にあったという。コジモもその流れに飲み込まれ、会計文化をメディチ家の中で引き継がなかったことにより、没落への引き金が引かれたのである。
そしてフランス・ブルボン朝の最盛期を築いた、ルイ14世の時代。この栄華の背景にコルベールという名宰相の存在があったことはよく知られているが、ルイ14世自身も簿記も理解し、好んで帳簿を持ち歩いていた程であったという。
しかし会計を理解したがゆえに、その力の大きさに気付いたルイ14世は、コルベールの死後、その技術を遠ざけるようになってしまう。一度は取り込んだ会計技術を手放してしまったことが、後のフランス革命へとつながっていくことを、彼は知る由もなかった。ここでジレンマを感じる主体が「商人」から「国王」へと変わっていることも、注目したいポイントである。
それ以降の時代は、会計技術と産業発展の追いかけっこの様相を呈してくる。イギリスではウェッジウッドが原価に確率の概念を持ち込み、鉄道の隆盛は減価償却という概念を生み出した。アメリカの建国の歴史は債務管理とともに築かれ、やがて訪れる戦争とともに会計はより一層専門化、複雑化していく。
そして20世紀以降、度々世界を襲った金融危機。世界的に名の知れた会計事務所にも、監査対象との距離感に伴う収益のジレンマが存在した。独立の立場から監査をすると称しながら、監査で知り得た財務情報を活用してのコンサルティングが横行したことは、世界を混乱へと誘う。根拠なき熱狂に浮かれたアメリカは会計と責任の原則を忘れ、悪夢のような出来事が起こってしまったことは記憶に新しい。
700年近くに及ぶ会計の歴史を振り返ることで見えてくるのは、会計が単に商取引の一部ではなく文化の中に組み込まれていた時、社会は必ず繁栄するという事実である。ルネサンス期のイタリア都市ジェノヴァやフィレンツェ。黄金時代のオランダ。18世紀から19世紀にかけてのイギリスとアメリカ。本書では随所に各時代の絵画が挿しこまれており、会計士の描かれ方からもその時代の有り様を伺い知ることできる。
互いに協調する方が良い結果になることが分かっていても、皆が自身の利益を優先している状況下では、互いに裏切りあってしまう。これは「囚人のジレンマ」として知られる概念であるが、商人たちがジレンマを感じる相手も、宗教、文化、国王から報告責任までと多士済々であった。これらの数字の裏側に隠された人間模様は、一つ一つがどこまでも面白い。
日々の営みを記した帳簿とは、光に対する影のような存在にあたると言えるだろう。人は見たいものしか見ない生き物だから、スポットライトの当たる方向に視線は向きがちかもしれない。だが足元に横たわる己の影を直視できるものこそが、より光り輝くことが出来ると、本書は教えてくれる。