面白い。面白い。本当に心から面白い。
著者、北大路公子氏は過去フェミナ賞を受賞したこともあり、現在はエッセイストとして人気の文筆家。ウェブ日記「なにがなにやら」が評判となって2005年に寿郎社から出版された『枕元に靴 ああ無情の泥酔日記』(新潮文庫に増補版)、「全然売れてねー」にも関わらず、「だって俺の机のひきだしに、あの売れてねー本の残りの原稿が入ってるかと思うと、なんか縁起悪くてさー。会社ごと底なし沼に引っ張られそうだし」という寿郎社社長により刊行された続編『最後のおでん ああ無情の泥酔日記』、本書はその新潮文庫増補版である。収録されているのは著者が39歳から40歳にかけての2年間だ。
札幌在住、実家で両親と暮らす著者は、特別ぶっ飛んだ日々を送っているわけではない。猫を飼い、犬を飼い、友人と会い、プロ野球の試合を観戦し、相撲中継を観、仕事をし、恋人と電話をし、妹の赤ちゃんをあやす。そしてとにかく酒を飲む。酔って失敗する。客観的に事実だけを見ればどうということのない日々を送っている。
しかし、それがひとたび日記として言語化されると、まるで景色が変わる。女性の日常を紡ぐ、知性に裏付けされた確かな文章は、ある一点を目指している。なぜか、ぐだぐだで、どうしようもない、笑いの一点を目指している。何でもない日々は、電車の中では決して読んではいけない、ただ笑い笑って笑い転げるしかない日々に変換されているのである。
例えば、座布団の上で眠っている猫との戯れを切り取った「穏やかで礼儀正しく寛容。」は、静かに眠る猫の描写から始まる。安定感のある書きぶりに心ゆだねて読んでいくと、徐々におかしい、と気づく。「三角形で小さくて均一に薄い耳だ。」との後に、「キップ切りでパチンと穴をあけるか、ハサミで切り取って油で揚げてパリパリと食べるのにちょうどいい感じの耳。」と続く。変わった描写だが、ユーモラスで面白いなあと思っていると、更に「そのどちらかを選べと言われたらどっちを選ぶだろうと激しく迷い、そのあたり本人にとってはどうなんだろうと声をかけて尋ねても、やっぱり猫はまったく返事をしない。」しねーよ!てか、聞くなよ!と突っ込み待ちであろうと思いながらも言いたくなる。読み進めていくともっと面白い。日本語を駆使して読者を笑いに突き落とす。ネタばれになるといけないので控えるが、上手い、やられたと思いながら笑ってしまう。
泥酔日記とあるように、やはり秀逸なのは酒に関する日記だ。「どこですか?」では泥酔の上、財布を紛失している。「焼鳥屋でビール飲んでたはずなのに気がついたらパジャマ裏返しに着て茶の間で爆睡してたうえに財布ないんですけどどこですか?」と始まるその日の日記は、悲哀を漂わせつつも軽快な調子である。著者は昨晩の自分の行動を同行した友人に尋ね、銀行と警察に行き、その足でなぜか本屋で山ほどの本を買い、回転寿司でやけ食いをする。何でそうなる!と突っ込みたくなるが、そんな当たり前の反応を超えた恋人の一言と、それを受けた締めに爆笑する。ちょっと立ち読みしてみようという方がいらしたら、35ページから36ページをどうぞ。もしかしたら、共感する方も少なからずいるかもしれない。
書評家・大矢博子氏は、解説で著者の文章をこう評している。
自分を落として笑わせる手法をとり、「バカだなあ、あははは」と笑わせるタイプのエッセイであっても、キミコさんが実はかなりの才女であり卓越したセンスの持ち主であることは文章を読めば明らかだ。それを押しつけがましくなく、純粋に大笑いできるエッセイに仕上げているのは、読者を楽しませようというサービス精神であり、そのためにどう書けばいいかをきっちり計算しているからに他ならない。
…(中略)…
読者に負担を強いず、ただ楽しませることにのみ注力する、それがキミコ文体なのである。
すべてはこの解説に尽きる。本を読むということには、大なり小なり負荷が伴う。文章を読み解き、思考し、著者の意図をくみ取る。そしてそれを自分の中に取り込む。どんな分野の本を読んでも起こるその脳内作業は、楽しいがエネルギーの必要なことでもある。しかし北大路公子氏のエッセイではそれは起こらない。ただ読んで、笑うだけのことがこんなに快感であったのかと気づかされる。
晩酌してそのままコタツで寝てしまっては翌朝長男に叱責されるという日が続き、今日は休肝日にしようかとポケットに入っていた酒代で買ったのが本書である。嬉々として酒に負ける著者の姿に、どこか後ろめたい思いである。
もし読まれるならば、ぜひ何がしかのアルコール飲料も一緒に購入されることをおすすめする。「金、記憶、信用、その他。酔って失ったもの、プライスレス。」帯文にはこうあるが、表紙のイラストの通り、著者はとにかく楽しそうにお酒を飲む。読んでいるとなんだか一緒に飲みたくなるのである。
女友達にプレゼントするならぜひキミコ本。