オッホン、我が輩は悪魔である。
いまや夜更けても煌々と電気なるものの光が輝いており、すっかり我が輩の威信も地に落ちたものよ。まだまだ我が輩も元気だった頃、暗闇が夜を支配していた当時は、人間どもはわれわれを心から畏れておったものじゃ。
夜を迎えようとする夕刻も、けっして美しい時間などではなかった。人間どもは宵闇とともに、有毒な霧が空から降りてくると本気で信じておった。夜空に輝く月も脳などを変化させ、人を狂気におとしいれると思われていたんじゃ(とくに満月の夜、女性は、ルナティクス=狂人になりやすいとも)。
当時、明かりといえば、ろうそくやランプ、ランタンや松明など、ゆらゆらと揺れる乏しい焔しかなった。夜の闇は深く、広大で、昼とはまったく異なる「もうひとつの王国」を創り出しておったのじゃ。
この夜の王国、今とはあまりにも様相が違っておった。たとえば、睡眠。当時は皆、深夜に一度起きて、「あれやこれや」してから、また眠りに就いていたものじゃ。「あれやこれや」の何たるかは、まあ本を読んでいただくとして・・・いずれにせよ、今ではすっかり忘れられたこの夜のひとときは、昼の時間では得られないかけがえのないものじゃった。
(※夜の二度寝(分割催眠)については、朝日新聞「GLOBE」にも記事が)
忘れてはならないのは、人間どもは夜には視覚が利かなくなるということじゃ。そのかわり、音(聴覚)・におい(嗅覚)・触覚が研ぎ澄まされる。月の光や星明かりをアテにできない闇夜を歩くとなれば、なおさらのこと。たとえば、「スイカズラの茂みやパン屋から漂う芳香、堆肥が放つ悪臭が、目に見えない道標となった」という具合じゃ。
においと言えば、街中では夜、建物の窓から人の糞尿が道に降ってくることもよくあることじゃった。下水設備が整っていなかったため、ウン○のポイ捨ても許されておったのだが、こんなんで香り高くなってもしょうがあるまい。
夜間は強盗や暴力沙汰に遭う危険も増した・・・公的な警察組織もまだなかったからじゃ。パリのセーヌ川にも、朝になると死体が点々と浮かんでいたほど。それでも、人々は夜、盛んに出歩いておった。夜こそ、昼のいろんな束縛から放たれる「解放区」だった。人間どもは、わしら悪魔も魂消るような、滅茶苦茶なこともあれやこれやしでかしておった。
興味深いのは、役人や教会などが、夜間をより安全にするよう努めてはいなかったことじゃ。むしろ、夜は人間の力がとうてい及ばない大いなる自然の領域として温存させようとした。夜の闇が深ければ深いほど、神や権力の光もいっそう輝くというわけじゃ。やがて夜を明るく照らす街灯ができても、その設置にローマ教皇などが頑として反対したというのも宜なるかな。むろん、これは我が輩たち悪魔や悪霊、魔女、妖精、それに幽霊どもにも願ったりなことじゃった・・・
我が輩たちの華々しい活躍や、人間どもがおこなったキミョーキテレツな魔法・まじない、あるいは夜の寄り合いにおける物語の伝承、ベッド仲間などについてもたんと語りたいところじゃが、どうやらもう夜明けが近づいておる。そろそろ、本書の黒文字の中に舞い戻るとしようか。
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本書の著者ロジャー・イーカーチ教授が、3月に来日される折に、メデイア関係者による取材を受付けています。
2015年3月1日(日)・2日(月)15〜17時
京都市内、ホテルエルインにて
(時間の都合のつかない方は応相談。*メールによる取材も可能)
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『なぜ生物時計は、あなたの生き方まで操っているのか?』『ピア:ネットワークの縁から未来をデザインする方法』『血塗られた慈悲、笞打つ帝国。』などを編集。本書(原題At Day’s Close)は、数々の賞・年間ベストブックを獲得した名著。当然、日本でも出版されるものと思い、刊行を待ったが、余りにも遅いので著者に連絡を取ったところ、まだ版権(出版する権利)は空いている・・・とのご返事。即版権取得に動いた次第。それにしても、日本の翻訳状況の厳しい現実を改めて認識した。