ノンフィクション専門の書評サイトHONZを開始する前の2008年、たまたま書店店頭で見つけた本書を手にとった。そして強い衝撃を受けた。日本人にこのような素晴らしい、出版史に残るような科学読み物が書ける日が来るとは思わなかった。このような本こそ世の中に紹介しなければならないという義務感を感じた。それまで個人ブログを利用して簡単な書評を書いていたのだが、組織化して専門のサイトを立ち上げる覚悟を決めた。それが現在のHONZである。素晴らしい本は、新たな挑戦を生み出す力を持っているのである。もちろん本書はHONZに常設している「成毛眞オールタイム・ベスト10」の筆頭である。
科学読み物は伝統的にイギリス人作家が上等だ。19世紀の大英帝国は世界中から文物と情報を集め、観察し、分類し、科学した。その結果として、彼らの末裔たるイギリスのサイエンス・ライターたちはつねに物事をグローバルに捉えるという視点をもち、テーマに沿った情報を徹底的に収集し、それを網羅的に過不足なく記述し、脚注や索引の制作に時間を割いて、後世に残る科学読み物をものにしてきたように思われる。比較してアメリカのサイエンス・ライターは、アメリカ国内の出版市場が大きいため、国内読者だけを対象とした記述が多く、アメリカ人だけに通用するスポーツ選手などの固有名詞を使った比喩を多用し、宣伝文句につかえるセンセーショナルな記述を好み、次作のセールスに繋がるような、尻切れ感のある本を書くことが多いように思う。
いっぽうで、残念ながら日本には科学読み物を専門とするライターすらいないのが現状だ。ほとんどの科学読み物は現役の学者が編集者に懇願され、研究の合間に書いているようだ。なかには上手い書き手もいるのだが、自分の研究をわかりやすく紹介するということが中心になり、初心者に向けての啓蒙的な本が多いため、多くは新書に収まるような分量で歯ごたえがない。科学専門の下書きライターも少ないため、出版点数も英米にはるかに及ばない。
ところが例外的に本書は、ひとたび英訳されることがあれば、英米でも間違いなくベストセラーになるであろう素晴らしい科学読み物に仕上がっている稀有な本なのだ。スムーズだが起伏にとんだ章立て、文章と構成の快適なスピード感、読書家特有の語り口のうまさ、膨大だが正確な科学的知見、センセーショナリズムに陥ることのない立ち位置、過不足のない図版と丁寧な注の読み応え、巻末の用語索引と人名索引および注と図版出典一覧は、本書が日本の出版史に残るものであることの証である。
巻末の人名索引で紹介されている科学者らは67名におよび、注だけでも51ページ。図版出典一覧は注とは別立てで8ページもある。ちなみに本文は394ページである。単行本の価格は2800円と高額だったが、じつは本当にお買い得な本だったのだ。それゆえに単行本はまだ店頭で売れつづけ、版を重ねているという。その本を今回文庫化するという。著者と岩波書店の英断には読者を代表して敬意を表したい。
内容について簡単に紹介しよう。本書は長期的な気候変動のメカニズムとそれを解明した科学者たちの物語である。第1章で、まず海底堆積物について説明がある。映画「グラン・ブルー」を引き合いに出し、読者の視覚記憶に訴えることで親近感をもたせ、一気にまさに深海に引き込んでゆく手つきがじつに巧みだ。海底堆積物の採取法を説明したうえで、堆積物に含まれるプランクトンの遺骸などを調べる意味の説明はまさに導入に相応しい。
第2章では、その海底堆積物から得られる情報の一つに太古の海水温があると明かされる。実際には酸素同位体を使って測定するのだが、その歴史や理論も丹念に語られる。先駆者たちの写真を大きく掲載することで、彼らへの畏敬や感謝だけでなく、科学が研究の積み重ねで成立していることを深く理解することもできる。それだけではない。同位体を計測する質量分析器の構造から、同位体比とその表記方法まで取り扱う丁寧さには驚かされるはずだ。科学読み物を読みなれた読者であれば、この第2章までで新書1冊分の情報量があるということに気づくだろう。
第3章では、一転して巨大氷床の形成とアイソスタシー、氷床の融解と海面上昇などが取り上げられ、つづく第4章では地球の公転軌道と離心率・歳差や自転軸の首振り運動という事象をジャンプボードにして、ミランコビッチ仮説まで一気に着地する。ミランコビッチは20世紀初頭に生きた科学者であり、氷河時代は10万年周期でおこり、地球の公転軌道や自転軸の変動にともなう日射量の変動が原因であるという理論を打ち立てた。この10万年周期については、日本のスーパーコンピュータ「地球シミュレータ」で再現できたというもっとも新しい知見も紹介される。
この4章のごく簡単な概略を読んだだけでも、知的興奮を覚える読者は多いだろう。本書は13章立てであるから、読者はさらに9章の物語を楽しめることになるのだ。ここですべての章の概略を書くことはやめておくが、その中から印象的な見出しを列挙してみよう。第6章「悪役登場」、第9章「もうひとつの探検」、第10章「地球最後の秘境へ」などはまさに、本書が単に研究成果をまとめた啓蒙書ではなく、小説に勝るとも劣らない起伏にとんだ読み物に仕上がっている証左だ。
ちなみに第6章は、温室効果ガスとしての二酸化炭素についてである。二酸化炭素分子には平均的な姿とそうではない姿があり、そうではない姿、すなわち振動し極性をもった場合にのみ赤外線と共鳴して、温暖化ガスとしての効果をもつということなど、まったく知らなかったばかりか、自然の不思議さに驚かされる。
「もうひとつの探検」の第9章にいたっては、冒頭から驚くばかりの事実が明かされる。なんと米ソ冷戦の真っ最中、1950年代の終わり頃、グリーンランドにアメリカ軍の基地が秘密裏に建設されていたというのだ。大型トラックもすれ違うことができる巨大なトンネルが400メートル以上掘られ、その両側には軍事施設だけでなく、教会や映画館まで作られていたという。それ以上に驚くことは、その基地は地表ではなく氷床の内部に建設されたのだ。その基地が気象学にどう関係するかは読んでのお楽しみである。
第10章「地球最後の秘境へ」とはもちろん南極のことだ。1998年12月ボストーク基地で長さ3623メートルのアイスコア、すなわち垂直に氷床を掘削することで得られる棒状の氷が採取された。氷床の底まであと120メートルの深さに到達したのだが、掘削は中止された。なんとボストーク基地の真下4000メートルのところに琵琶湖の20倍以上の面積を持つ巨大な湖が見つかったからなのだ。地球を研究することの壮大さが良く分かるエピソードだ。
……いけない、もう見出しの紹介でやめるつもりだったのに、つい説明してしまった。さて、おおまかにいって、本書の構成は冒頭に導入部があり、中盤は海洋における深層水循環と循環停止のメカニズム、後半は気候変動における時間スケールの話が中心となる。そして、最終章で著者は、気候システムはヒステリシスで説明することができるため、問題を放置することは劇的で短期間の気候変動をもたらす可能性があると警告する。
ヒステリシスとは履歴効果とも呼ばれ、加える力を最初の状態のときと同じに戻しても、状態が完全には戻らないことを意味する。角が曲線になった平行四辺形のようなグラフを思い出す人も多いだろう。つまり著者は現在の気候が、ある時を境に一気に変化し、元の気候に戻ることはなくなることを憂慮しているのだ。その変化の方向は温暖化か、寒冷化か、あるいは我々の知らない未知なる気候であることも考えられる。
解説の前半では本書の読み物としての面白さを強調しすぎたかもしれない。いっぽうで、このヒステリティックな気候変動の可能性とその理論を、多くの人が知らなければならないのは自明であり、本書の真の価値だ。温暖化を防ぐためには二酸化炭素などの温室効果ガスの抑制が必要である。そのために全地球規模でのエネルギー消費の抑制が可能なのか、原子力の利用は必須なのか、などの検討については今後の課題ではなく、今日現在の課題であることが良く分かる。
本書はまた高校生や大学生も読むべき本でもある。本書は単に気候の科学を紹介した本ではない。科学者たちのさまざまな逸話を紹介しながら、科学における知識・研究の積み重ねの重要性を教えてくれるのだ。過去に世に知られていない無数の発見や失敗があったからこそ、その上にノーベル賞級の研究がなされるのだ。
アインシュタインの名言のひとつに、
過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ。大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである。
というものがある。まさに「太古の地球を学び、今日のために生き、未来の地球に対して希望をもつ。大切なことは、現状に疑問を持ち続けることだ」。本書はそれゆえに、やがて地球を救う科学者たちを育てる最良のテキストである。