2005年、著者は経産省から外務省に出向し、在ブルネイ日本大使館の二等書記官となる。ブルネイは石油と天然ガスにめぐまれ、東アジアでもっとも裕福な国だ。ブルネイ王室は、世界一裕福な王族であり、その資産は4兆円といわれる。「ポルシェ、フェラーリなど5000台の高級車を所有し、毎日乗り換えている」「11億円のギャラでマイケル・ジャクソンを招待した」「王子がマライア・キャリーに6億円の指輪をプレゼントした」などという逸話は有名だ。
著者は、そのブルネイで、日本とブルネイの架け橋たらん! と奮闘する。が、早々に壁にぶつかってしまう。様々な提案を持ちかけても、ブルネイ政府の職員たちが動かないのだ。アポを入れても、対応するのは決定権のない末端の担当者ばかり。依頼した案件に対していつまでたっても返事がこない。そもそもその案件を上司に上げているかさえ、疑わしい。そして日本からの出張者とのアポイントはドタキャン。「保留」と「棚上げ」で、時間切れを狙い、何もしない。ブルネイにとって日本は最大の貿易相手国。両国は長きにわたり、良好な関係にあるはずなのに、なぜか?
やがて著者はその答えに気づく。ブルネイは、国土の広さは三重県程度、人口は40万人だが、そのうち約15万人は周辺国からの出稼ぎ労働者で、ブルネイ人は25万人。福井市や徳島市と同規模である。そしてその7割が公務員。かつ資源が豊富で、黙っていてもたくさんのお金が国に入ってくる。そんな状況にあれば、ヘタに動いて「出る杭は打たれる」状況になったり、失敗して責任を取るはめに陥るより、何もしないほうがいいに決まっている。市長が絶対的な権力を持ち、人口が7割が市役所勤めの小さな地方都市、市にはお金はジャブジャブ入ってきて、しかも無税という町を想像してみるといいかもしれない。そんなところで生まれ育ったら、すべてを「事なかれ主義」で通したくなるのも、仕方がないのだろう。
このブルネイ側の「暖簾に腕押し」状態にストレスがたまる一方、上司によるイジメまで受ける。妻子もまだブルネイの生活には慣れない。そんな踏んだり蹴ったりの状況で、著者は、何をしたか。そう。本のタイトル通り、「バドミントンばかりをした」のである。
中学生の頃からバドミントンに親しんだ著者は、「八方塞がり状態」における、唯一の気晴らしとして、ドバイの「ブルジュ・アル・アラブ」とともに世界で唯二つの7つ星ホテルである「ジ・エンパイア」のバドミントンコートで、インストラクターを相手に、両足の親指の爪が剥がれ、体がボロボロになるまでシャトルを打ちまくるのだ。当時著者は38歳、本格的な練習をするのは20年ぶりだったという。
ある日、「ジ・エンパイア」のコートにものものしく白バイの誘導で入ってくる一行を見かける。それは、ブルネイの「ダイアナ元妃」とも呼ばれて国民に思慕されている、現ブルネイ国王ボルキア陛下のマリアム元王妃だった。その美しさや威厳ある立ち振舞い以上に、著者が感銘を受けたのは、彼女のバドミントンの腕前と、小さな体から溢れ出るファイティングスピリットだった。マリアム元妃のものすごいプレーを目の当たりにして興奮するととも、著者はふと気づく。「この国のセレブたちはバドミントン好きなのではないのか」。よく考えると世界に誇る豪奢な7つ星ホテルにバドミントンコートがある事自体、不思議だ。ここはセレブ御用達のコートかもしれない。そして「自分は外交官として、バドミントンを通じてブルネイ政府に人脈を構築できるのでは」と思いつく。
さらに、著者は、毎日このバドミントンコートで練習をしているが、そこで外国人を見たことがない。大使館などでも、ブルネイ人がバドミントン好きだ、という話題は出たことがない。つまり、バドミントンが政府との関係強化に利用できることに気づいている外国人や外交関係者はほとんどいないに違いない。著者は「思わぬ鉱脈を掘り当てた」のだ。
とはいえ、どうきっかけを作ればいいのか。これまでの対戦相手はホテルのインストラクターと日本人会の人々ぐらい、地元のブルネイ人とのバドミントン人脈はまったくない。加えて、マリアム元妃の腕前を見るにつけ、なによりまず技術レベルが雲泥の差だ。
最初に著者がしたのは、地元のバドミントン好きのおじさんたちが集まる、自宅近くの村の公民館に出かけることだ。この超地道な発想はとても好きだが、セレブまでの道のりは実に遠そうである。そして、バドミントンのウェアを来て、ラケットを持ち、バドミントンシューズを履いて、公民館内をうろうろする。まさに全身バドミントン野郎なわけだが、悲しいかな、誰も声をかけてくれない。それどころから目も合わせてくれないのである。
そして翌日、やっぱり声をかけてくれない。コートの隅で試合を見て、ナイスプレーに拍手したり、惜しいプレイに残念な仕草をして、周囲にアピールするも無視される。わずかな進歩は、たまに目が合うのようになったことぐらい。それもすぐにそらされてしまうのだが。
そして3日目についに変化が。男がマレー語で話しかけてきたのだ。著者は「私は日本人でバドミントンをしたくてここに来た」と英語で答える。以下、本書のなかで一番好きなシーンなので引用してみる。
その男はホール中に響き渡るような大声で、
「アッパ・ニー! オラン・ジャプン!(何だって! 日本人だとよ)」
と叫んだ。そこにいた人たちの視線が、一斉に私に向く。
奥にいた親分らしき人物がゆっくりと立ち上がり、口笛を吹きながら私に近づいてきた。親分は、通訳役の男を従えていた。
「よし、日本人。あのコートの次の試合に入れ、シャトルは持ってきただろうな?」
「お前のパートナーはあいつだ。やつのアダ名はスリートン。スマッシュは3トン級だから頼もしい味方になるぞ」
紹介された男のほうを見ると、スリートンが駆け寄ってきて、親指を立て、私の親指に擦りつけた。ブルネイ式の「指きり」のようなものだろうか。
対戦相手は「グリーン・グリーン」という男だった。
「俺はグリーンが好きなんだ。見ろ、上から下まで全部グリーンだろ」
シャツにパンツ、靴に靴下、靴ヒモ、座っていた椅子までグリーン一色だった。
「俺のパートナーはペンギラン・チーターだ。チーターとは嘘つき(Cheater)という意味だ。あいつはいつも得点をごまかすから、お前らよく注意しておけよ」
グリーン・グリーンは冗談交じりに言った。
グリーン・グリーンって(笑)。
著者は、試合を通じて彼らと一気に親しくなる。実は、そのへんのおじさんだと思っていた彼らのなかにはエネルギー省の高官や警察や海軍の幹部がいた。大使館の二等書記官では絶対にアポの取れない人々である。
こうして、著者は「鉱脈」の端緒を掴む。そして、あとはとにかくバドミントン三昧。睡眠時間3時間でひたすらシャトルを追い続ける(セレブたちは夜型で深夜にプレーするのだ)。バドミントンをしてただけなのに(だけ、というのはまあ、著者に失礼だが)、やがて警察幹部や大臣に電話で根回ししてプロジェクトを成功に導けるほどの人脈を築き、ついには王族と関係を作るに至るまでの、熱く楽しい過程は、ぜひとも本書を読んで楽しんでほしい。
さて、ここまでは、アホな(失礼!)熱い男が、美しい奥様とかわいい子どもに迷惑かけまくりつつ、ひたすらブルネイでバドミントンをしまくる痛快で楽しい物語、なわけだが、最終章で一気に雰囲気が変わる。
ブルネイ側の要請によって、赴任期間は異例の5年間に伸び、その後帰国して経産省に戻った著者が感じたのは、「なぜ、日本はこんなにも弱ってしまったのか」ということだった。著者が担当したのは、家電、コンピュータ、通信機器、半導体デバイス産業など、日本の花形産業であった業界だ。そこには、さまざまな企業担当者から相談が来ていた。
「A国では日系メーカーに不当な関税がかけられています。韓国メーカーは無税です。なんとかならないでしょうか」
「B国が海外製品の輸入を制限するルールを作ろうとしている。なぜか韓国の製品は除外され、我が社を含めた日本企業の製品だけが引っかかるようになっており、困っている」
いい製品を作れば売れる時代は終わった。日本は、経済上の日々の戦いで敗れつつあるーー。
著者が、そんな「駆け込み寺」のような仕事をしつつ、感じるのは、メーカーの責任者や、意思決定者が誰なのか見えないということだ。問題を持ち込めば国がなんとかしてくれると思っているふしがある。リスクを取らず、できるだけ問題を回避する人が出世し、成功する日本企業の体質を肌で感じた。これでは事なかれ主義のブルネイの官僚たちを嗤えない。
また、省内も変わった。朝、山のように届く省内からのメールのほとんどが、責任やリスクを回避するためのばかりで、うんざりしてしまったという。
「なぜ、日本はこんなことになってしまったのか」「日本が弱っている、誰も挑戦しなくなった」。
結局、著者は経産省を辞めてブルネイに移住、「挑戦する日本企業」をサポートすべく、奮闘していくことになるのである。
最終章を読むと、それまでの彼のバドミントン三昧も違った意味を持つように感じられる。すなわち彼はリスクを取り、果敢に挑戦した。異国でまったく知り合いもいないなか、次々にバドミントン会場に出かけて試合を申し込む。バドミントンの合間に大臣を不機嫌にさせつつも、プロジェクトについて熱心に説明し、ついには「これからはお前の言うことだけを信用する」と言われるまでなる。図々しくも元妃や王子にバドミントンの対戦を申し込み、不機嫌な王子に本気で体の正面にスマッシュを打ち込んだりする。些細なことかもしれないが、これらも結構なリスクだ。一介の二等書記官のふるまいが、国王の機嫌を損ね、日本国の損失に繋がることもあるかもしれないし、そうれば、もう著者の出世の道は絶たれたことだろう。
しかし、著者は果敢に挑み、バドミントンの対戦を通じて生の人間として相手と深く付き合い、信頼関係を構築し、結果仕事も成功に導いたのだ。
実は、日本はブルネイへのODAを1997年度を持って打ち切っている。一方、中国と韓国は、天然資源を狙って、さまざまな支援を申し出ている(中国には南沙諸島領有権をめぐる政治的思惑もある)状況だ。実際、日本とブルネイの経済連携協定の協議ではブルネイは中国の顔色を伺うようなふるまいを見せ、また日韓による、国連専門機関の局長ポスト争いの際には、ブルネイに支援を取り付けようとしても、「ノーコメント」とにべもない返事しか来なかったこともあった。そんな状況下で、著者は個人の力でブルネイ政府と強い信頼関係を構築したのだ。その意味で、著者は、いまだ「バドミントンの効能」に気づいていない中国や韓国を巧みに出し抜いたともいえる(実は中国も韓国もバドミントンの強豪国だ)。
本書は異国で挑戦し、力強く生き、真の信頼関係を得るための、恰好の教科書にもなっているのである。