『ヴァロワ朝』by 出口 治明
1328年、フランスでは、341年続いたカペー朝が断絶し、261年続くヴァロワ朝が始まった。ところで、新王フィリップ6世は、カペー朝最後の王シャルル4世の従兄なのだ。それが、何故王朝交替と呼ばれるのか。本書は、そこから筆を起こして、ヴァロワ朝13人の王の事跡を順に紐解いていく。
幸運王フィリップ6世は、しかし、我こそ王位継承権者だと名乗るイングランド王エドワード3世の挑戦を受けて、100年戦争が始まる。クレシーの戦い(1346年)では、秘密兵器長弓(ウェールズ由来)によりフランス軍が完敗する。良王ジャン2世は、ポワティエの戦い(1356年)で捕虜となってロンドンに連行される。賢王シャルル5世は、(税金の父とも呼ばれた)、タイユ(人頭税)、エード(消費税)、ガベル(塩税)の3本柱で王国の財政を建て直し、名将デュ・ゲクランを登用して、イングランド軍を追い払う。そして、1374年サリカ法典を法源とするヴァンセンヌ勅令で王位継承を定めた(女子も女系も排除)。万事安泰に見えたヴァロワ朝だが、次の王シャルル6世は狂王だった。ブルゴーニュ派とオルレアン派の争い。そこへイングランド王ヘンリー5世が攻めてくる。アザンクールの戦い(1415年)で圧勝したヘンリー5世は、ブルゴーニュ派と同盟して、トロワ条約を強制し、シャルル6世の娘と結婚してフランスの王位継承権を得た。
しかし、ヘンリー5世は早世し、シャルル6世が死んだ時には、フランス王兼イングランド王たるヘンリー6世はまだ1歳の赤子だった。勝利王シャルル7世は、ジャンヌ・ダルクに助けられて最終的にはフランスをイングランドから取り戻す。100年戦争は終わった。なお、アニェス・ソレルをフランス宮廷最初の寵姫(ミストレス)としたのもシャルル7世である。慎重王(あるいは世界の蜘蛛)ルイ11世は、ライバルのブルゴーニュ公家を破滅させる。シャルル8世は、シャルル・ダンジューの子孫ということでナポリ王を宣言し、イタリア遠征(1494~95年)に赴くが、帰国後、不慮の事故で死亡してヴァロワ王家の直系はここに断絶する。
次は親王家のオルレアン公が継いだ。ルイ12世である。再びミラノ、そしてナポリへ。しかし結局イタリアは失われた。ルイ12世にも男子がいなかったので、親王家のアングレーム伯がフランソワ1世として登極した。フランソワ1世は、ヨーロッパの覇権をめぐってハプスブルク家のローマ皇帝カール5世と終生戦うことになる。レオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招いて庇護したのもフランソワ1世だった。そのおかげでモナリザはパリに在る。アンリ2世の時代に半世紀にわたったイタリア戦争は終結した(1559年のカトー・カンブレジ条約)。ところが、アンリ2世は槍試合の事故で急死する。
アンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディシスの3人の子どもたち、フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世が順番に王位を継ぐ。シャルル9世は、パリ勅令で1年の始まりを1月1日に定め、母后カトリーヌと27ヶ月にも及ぶ国内大行脚(1564~66年)を敢行する。しかし、国内の宗教戦争は激しさを増し、1572年、サン・バルテルミーの大虐殺が起こる。そして、3アンリの戦いへ(アンリ3世、旧教のギーズ公アンリ、新教のナバラ王アンリ)。ギーズ公アンリに次いでアンリ3世が暗殺されて、ヴァロワ朝は終焉を迎える。そしてナバラ王アンリがブルボン朝を開く。
著者は、カペー朝を個人商店に、ヴァロワ朝を中小企業に擬える。フランスが大企業になるためには次のブルボン朝を待たねばならない。それにしてもヴァロワ朝261年の盛衰を一気に読ませる筆力は大したものである。さすがに直木賞作家の名に恥じないものがある。
出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。