シンプルでセンス溢れる軽快な装丁、帯には江國香織と穂村弘の推薦文、著者は、僕らの世代だと、ハワイやサーフィンのイメージがすぐに浮かぶ、作家・翻訳家の片岡義男と、クッツェーの翻訳や『嵐が丘』の新訳で知られる鴻巣友季子。そしてタイトルの「蒟蒻問答」を思わせる遊び心ーー。
本を手に取れば、どうしても「洗練」「洒脱」といった言葉が思い浮かんでしまう。ところが、いざページを開くとまったく印象が変わる。ひんやりと澄んだ空気感のなかで、真剣を交えるような言葉のやりとりが続く、実に読みごたえのある一冊なのだ。
本書の「仕組み」は、次のようなものだ。
・まず著名な、すでに翻訳されている著名な小説を、「課題小説」として片岡、鴻巣両氏が選び出す。
・訳す範囲の原文だけが編集部から二人に渡される(つまり全体を通して原文を読むことはできない)。
・締切日が提示され、その日までに双方が翻訳原稿を提出したのち、対談が行われる。
・翻訳中は、他の翻訳家や作家の手による日本語訳を参照することはできない。お互いの訳文は対談当日まで見ることはできない。
つまり、翻訳家同士のガチンコ勝負である。当然ながら「誤訳したら負け」などというレベルの低い話ではない。正解のないことについて、自分なりに答えを明示し、相手にぶつけ、議論するのだ。対談当日、それぞれの翻訳を突き合わせながら交わされる二人の言葉は、時にピタリと一致し、時に鋭く対立する。ひりひりとした緊張感を湛えつつ、シンプルかつ真摯に、言葉と文学の細部に潜む、繊細な核心部分を突いてくるのだ。
取り上げられるのは、サリンジャーにチャンドラー、カポーティ、そして「赤毛のアン」のモンゴメリーなど。すなわち読者は、村上春樹、柴田元幸、野崎孝らの翻訳と比較しつつ、片岡・鴻巣の対決を楽しむことができるのだ。
最初に登場するのが、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』の冒頭部分。実に渋い選択だが、二人がまず注目するのは、一番最初の文章、It is a truth universally acknowledged, that a single man in possession of a good fortune, must be in want of a wife という一文のなかの「truth」だ。
これはそのまま訳せば「真理」「真相」「真実」といった感じになるだろう。この一文、例えばちくま文庫の中野康司訳だと「金持ちの独身男性はみんな花嫁募集中に違いない。これは世間一般に認められた真理である」となっている。他にも「truth」の訳語は、岩波文庫(富田彬訳)河出文庫(阿部知二訳)、新潮文庫(中野好夫訳)で「真理」、光文社古典新訳文庫(小尾芙佐訳)では「真実」である。
ところが、本書では、二人ともこの言葉を使っていない。このtruthの使い方には「世間の皆があまりにそういうから、真実ということになっているけどね」といった、反語的な意味合いが込められているのではないか、だから、「真実」とか「真理」という言葉は使いたくなかった、と鴻巣は説明する。そんなふうに、作家の意志や背景にまで思いを巡らせて、言葉のひとつひとつに丁寧に向き合う様がリアルに提示されるのだ。そのうえで、二人の訳が、既存の翻訳とは違う形で見事に一致するさまは、実に興味深い。
一方、チャンドラーの 「The Long Goodbye」 の訳出では、二人の訳にあまり一致するところがない。「たいへん難しかった」(鴻巣)、「これを訳すのは大変だ」(片岡)と、ふたりともがその困難さを語り、対話のなかで、チャンドラーの文体のわかりにくさが浮かび上がる。
チャンドラーが描いた情景をひとつひとつ丁寧に思い浮かべようとすると、時系列、位置関係などが実にあいまいで、なかなか想像しにくいのだ。「初めて目にした」はずなのに、その前の動作を視点人物が描写していたりするので、「もっと順序立てて書いてくださいよと泣きつきたくなる」(鴻巣)、「翻訳家にとって手間のかかる人」(片岡)となるのだが、時制がはっきりした「英語の時間」を違和感なく「日本語の時間」に変えるのも、翻訳家の仕事。「ひと言、ふた言の翻訳のなかで、作家の時間構成の癖がわかる」(鴻巣)そうで、そんな癖を読み解きつつ、翻訳家たちは「時間」さえをも翻訳してゆくのだ。
それにしても翻訳家のひとつひとつの言葉への向き合い方は、想像以上のものだ。例えばgirl、heといった、だれでも知っている単語をどう訳すべきかについて議論し、地名をどうカタカナで表現するかで試行錯誤する。
例えば、片岡はカポーティの『冷血』で、Holcombという集落を、ハルコーム、と訳す。正確さより不吉な感じを出したかったからだそうだが、確かに既訳にある、より原音に近い「ホルカム村」より、「ハルコームの集落」のほうがほうがぐっとくる。鴻巣も別の小説で、原音では「ムサダグ」となるであろう地名を「ムーサダーグ」と訳出したそうだ。
「音引きには、かすかに憧憬の念のようなものをかきたてる働きがある」(鴻巣)
「音引きひとつで、どこかちがう場所、なにかちがうものを、あらわすことができます」(片岡)。
音引きにさえ、神経を行き届かせていることにあらためて驚く。
さて、本書では、あちこちで印象的な言葉が飛び出してくる。例えば以下のようなもの。
「言葉は貨幣とおなじように、誰がいつどのように使っていい」
「(英検は)『絶対英語を使えるようにはさせないぞ』という固い決意のもとに作られているのではないか」
「be動詞を『てにをは』で捉えたら世界は終わっちゃう」
なかでも特に印象的だったのは、片岡義男の次の言葉だ。
「仮に百パーセントの翻訳というものがあるとしたら、自分は何パーセントくらいの翻訳でいくのか、と態度を決めるのです。伝えられるのは七十五パーセントだと決めたら、残りの二十五パーセントは意に介さないことにするのです」
手抜きをしているように聞こえるかもしれないが、考えてみれば、すべてを直訳・逐語訳したらその文学作品は台なしだ。翻訳で表現できない25パーセントに対し、翻訳家ただ一人が孤独に、誠実に向き合い、自らの責任で敢えて飲み込む。そのことによってより作品の価値はより高まるということなのだろう(なお、このようなルールは、あらゆる文章を書くときに有用なものだろう。少なくともHONZでレビューを書く際には大いに役立つ考え方だ)。
翻訳者とは、これほど真摯に言葉と向きあい、同時にこれほど冷徹に言葉を突き放しているのだ。翻訳者が孤独に受け止めた「訳されなかった25パーセント」を想像しつつ、世界中で出版された数々の素晴らしい作品を日本語で堪能できることに、あらためて感謝の念が沸き起こってくる。(文中敬称略)
「こういうものが、いま日本語で読めるとは、という心からの驚きは、いま日本語とは、という驚きに満ちた問いかけにまっすぐつながります」(片岡義男)
成毛眞も本書で「日本の翻訳家のレベルはおしなべて高い」と日本の高度な翻訳文化に言及してますね。