仕事で必要があり、終戦直後の日本を映した写真を探していて出くわしたのが、この写真集だった。その時に「スミソニアンで実現しなかった幻の写真展をここに再現。」という帯の言葉に思い出したのが、在郷米軍人の圧力でキャンセルされた、ワシントンのスミソニアン博物館での原爆写真展のニュースだ。なにしろ20数年前のことなのでうろ覚えだが(子供だったんで……)、新聞でニュースを読んだ記憶がある。
1990年からアメリカで、ついで1992年から日本各地で、著者のジョー・オダネル氏の写真展は開催され、話題をさらっていたものの、アメリカの博物館の殿堂ともいえるスミソニアンで95年の夏に予定されていた大きな戦争関連展示は、エノラ・ゲイ(広島に原爆を投下した機体の名称)以外はオダネル氏の写真も含めて大幅に縮小され、大きな国際ニュースになっていたのだ。
このスミソニアンの一件がきっかけというよりも、92年の日本での展示で人的なつながりができ、95年からのヨーロッパ各地での写真展示の反響が大きかったこともあったのだろう。1995年6月10日に、57点の一連の写真は、当時の撮影時の状況を記した文章とともに、英語併記の日本語での版が刊行された(というわけで、新刊ではまったくないのだが本の存在を知らせたく、良質なロングセラーを紹介する「プレミアム・レビュー」としたい)。
そもそも写真を公開するに至った経緯が大変なものだ。
1922年生まれの若きカメラマンは、1945年9月に広島、長崎を始めとする日本各地を撮影し、7ヵ月後に帰国、除隊する。私物のカメラで撮影していたネガを、アメリカへの帰国後、再び思い出す辛さに耐えかね、トランクにすべてを納め、鍵をかけた。
その後は、アメリカ合衆国情報局でホワイトハウス付きとなって、5代の大統領に仕えて写真を撮り続けていたそうだ。ケネディ暗殺直後の血まみれのジャクリーン夫人を撮影したのも彼だという。
その間20年、体調を崩した彼は1968年に職を退き、ひどい痛みと戦う入退院の日々を送ることになる。その原因は、広島や長崎で浴びた放射能だったことが後に明らかになるのだが――。
話は私が海兵隊に志願したときから始まります。当時十九歳の私は高校を卒業したばかりで、ハワイを奇襲した日本に敵愾心を燃やしていました。若者らしい愛国心から早く南太平洋に向かいたい、敵をやっつけたいと意気込んで入隊したのですが、私は日本に銃ではなくカメラを向けるための徹底した訓練を受けることになったのです。 (中略)
終戦直後に上陸して七ヶ月間、私は日本各地を撮影して歩き、心の中にあらたな葛藤が広がるのを感じました。苦痛に耐えて生きようと懸命な被災者たちと出会い、無残な瓦礫と化した被爆地にレンズを向けているうちに、それまで敵としてとらえていた日本人のイメージがぐらぐらとくずれていくのを感じたのです (あとがき「平和への願い」より)
内容の断片は、すでにNHKの番組になったり、戦争を扱うテレビ番組で紹介されたり、Youtube等ネットで一部見ることもできるようだ。見れば、「ああ、これか」と思う方もいるかもしれない。「焼き場に立つ少年」という1枚は、私自身テレビで見たことがあるくらいだ。
が、写真そのものの迫力もさることながら、彼が撮影のときに感じたことや撮影時の状況を表現した文章と合わせて読むと、その青年らしい良心的なたじろぎに胸打たれる。その心のゆらぎこそ、きっと人には大切なものなのだ。
印象的な「屋上に立つ」という一枚を見ると、そのゆらぎと彼自身の変遷がよくわかるような気がした。佐世保で、12階の建物の屋上から、颯爽とした23歳のオドネル氏が、シャッターを切っている、美しいとも言える写真だ。同行した通訳が「あんまりカッコよかったので、あなたのカメラでシャッターを切りましたよ!」と、撮影した1枚とある。思わず撮りたくなる佇まいだったのだろう。その溌剌とスラリとした後姿を持つ青年が、40年の後に、慈愛に満ちた顔写真とともに、あとがきで平和のメッセージを綴っているのだった。
最後に中身をお伝えしたい。いくつも紹介したいのだが、印象的な文章をひとつふたつ。
「その晩、招待を受けて市長宅を訪れた」というタイトルの1枚に付されているものだ。
ある夜、オドネル青年は、招待されて長崎市長宅を訪れ、美しく盛られた料理で歓待を受ける。市長夫人が用意してくれたのかと思い、市長が結婚しているかを聞くと市長は短く「はい、三十五年間」と答える。そのとき、周囲はすでにしんと静まり返っていた。
続けて、青年がお礼を言うためだろう、「その奥様にお会いしたい」というと、間に立った通訳が答えを聞いて歯を硬く噛み合わせて深く息を吸い込み、青年の目を見つめて言う。
「一ヶ月前の爆撃で奥様は亡くなられたのだそうです」。
「バカなアメリカ人が、失礼なことをうかがって申し訳ありませんでしたと伝えてくれ」と言ったまま、私は呆然として何も考えられないほどゆとりをなくしていた。その夜、厚くお礼を言い、握手をして別れると、私は浜辺のテントの中に逃げ込んだ。