日本全国の津々浦々で使用される方言は、地方の特色を彩る大きな要素の一つである。アホとバカ、ショッパイとカライ、イルとオルといった言葉の違いは、我々の文化の多様性の一端を示しているとも言えるだろう。
一方で、それらの方言をフレーズ化して構成される「ものの言い方」については、その人の性格に依拠するところが大きいものと思われがちである。間接的なもの言いが多ければ回りくどい奴、必要最低限のことしか言わなければぶっきら棒な奴など…。ところが意外や意外、この言い回しというものにも、地域差が大きく関与しているらしい。
本書は、ものの言いかたに表れる地域毎の違いから、それらを生み出した社会的な要因、さらには影響の連鎖や歴史的な側面にまで着目した一冊である。言語は思考を規定するように、ものの言いかたはコミュニケーションを規定する。引いては人間関係や商売上の結果にも大きな影響を及ぼすことだろう。いわばこれまでの「方言」の範疇に収まり切らなかった、表現技法のお国柄。そのいくつかを紹介したい。
たとえば大阪でよく使われる言葉に、「よう、言わんわ」というものがある。東日本の人間には分かるようで分からない、このフレーズ。正確には「あきれて、私は何も言えないよ」という意味で、その場の状況のバカバカしさを、遠巻きに眺めるような雰囲気を醸し出す。この何気ない一言にも、「客観的に話すか、主観的に話すか」という大きな争点が隠されている。
この「よう、言わんわ」のメカニズム、一部では「当事者離れ」と命名されるほどの、優れものである。これは、「事件の当事者としてではなく、状況の外に立つ第三者として事態のおかしさを味わおうとする姿勢」を瞬時に表現しているとのこと。まさに客観性の極みとも言うべき技法なのである。
満員のバスの中で人を掻き分けながら「ちょっと降ろしたって」と声を掛けたり、お店の店主が客に「おっちゃん、買うたってや」などと言うのも、この一種に含まれる。主観の視点を瞬時に客観に切り替える様は、さながら空中殺法のような妙技と言えるだろう。
一方で「細かく言い分けるかどうか」という争点においても、興味深い事例が紹介されている。大阪では「言う」という言葉の命令表現だけでも、「言え」「言い」「言うて」「言わんか」「言いんか」「言うてんか」など多種多様に存在する。ここに、細かく言い分けなければならぬ西日本と、大雑把でも構わない東日本という構図が浮かび上がってくるのだ。
その代表例が「どうも」という挨拶言葉である。「ありがとう」の代わりに「どうも」、「すまない」の代わりに「どうも」、人と出会った時も昼夜を問わずに「どうも」、別れ際にも「どうも」、用を足している最中に扉を開けられても「どうも、どうも」。このまるで万能奥義のような汎用性は、東日本の中でも特に東北によく見られる傾向があるそうだ。
このような地域毎の言い回しを、伝達の効率(「発言性」「定型性」「分析性」)及び、効果(「加工性」「客観性」「配慮性」「演出性」)という側面から分類すると、以下のようになる。
発達地域 :近畿地方
準発達地域 :西日本(九州を除く)、関東地方(特に東京)
準未発達地域:東日本(東北を除く)、九州・沖縄地方
未発達地域 :東北地方
予めお断りしておくが、本書のタイトルは「東西」ではなく「西東」であり、近畿地方を比較の起点においてあるケースが多い。また東といっても、東京ではなく東北を指すことが多いのも特徴だ。
このように並べると、まるで東北地方の言い回しが劣っているような印象を受けるかもしれない。しかし裏を返せば、東北地方においては加工性や客観性とは逆方向、つまり、直接性や主観性を強化する方向へ発達を遂げたものと捉えることも出来るのだという。その象徴が、東北方言におけるオノマトペや感動詞・擬音語の多さといったものである。
「じぇじぇじぇ」といった言葉でもよく知られる東北方言は、「バ」のバリエーションだけでも無数にあるなど、まるで「身体化された言語」とでも呼ぶべき性格を備えている。様々なことを「どうも」に集約する一方で、擬音語についてはバラエティに拡散する。これは、言語の進化がいかに複雑な経路を経て成り立って来たかということの証左と言えるだろう。
そして、このような言い回しの事例を重ねるほどに、疑問は膨らんでくる。なぜ「中央」と「周辺」、「西」と「東」といった違いが生み出されるのか。本書の後半部では、これらの違いを生み出した社会的な要因や歴史的な側面にまで踏み込んでいく。
すると不思議なことに「人口分布図の変遷」、「座と市の分布」、「港と問丸の分布図」などの傾向と、言い回しの発達地域の特徴が、ピタリと符号する事実が明らかになる。つまり、経済や交通の発達による交易の多様化・活発化が、コミュニケーションの発達に影響を与えてきた様子が見て取れるのだ。
人のコミュニケーションが、<場>=プラットフォームによって形作られてきたのは、今も昔も変わらない。だが、何気ないコミュニケーションに付加された位置情報、それらを可視化することによって見えてくるのは、流動性によって生み出された、ことばのイノベーションの足跡である。
大阪人だけでは育めなかった大阪ことばの合理性、東北人だけでは気付けなかった東北方言の躍動感。そのような、ものの言い方の背後には、自分が何者かという意識の拠りどころが確かに存在する。だからこそ、これだけプラットフォームが乱立する時代においても、ロケーションという最も原始的なプラットフォームは面白いのだ。
(※図版提供:岩波書店)