分厚い本である。内容もやさしくはない。しかし、10年後には、自分の健康が気になるすべての人が理解しなければならない本だ。千ドルゲノム、我々の細胞がもっているゲノム情報。すなわち、DNAの四つの文字ACGT、その60億塩基対にもおよぶ並び方をわずか千ドルで調べることができる時代がそこまできているのだ。
内容は大きく三つに分かれている。一つは、千ドルゲノムを可能たらしめる機器の開発。この部分は、ある程度の分子生物学の知識がなければ難しいかもしれない。ゲノム解析のコストは、『次世代シーケンサー』と呼ばれる、DNA塩基配列決定装置により、急速に低下した。
その開発には、数多くの天才的な科学者が携わった。イルミナ社のシーケンサーの原理はここで見ることができる。しかし、いまや『次世代』は古くさくなってきている。まったく新しい概念に基づいた、より低コストで高速な塩基配列決定装置である、第三世代、第四世代のシーケンサーが開発されつつある。
第四世代シーケンサーは、第三世代までのような光学的な検出方法を用いることなく、一分子のDNAの塩基配列を超並列的に処理できるという。その原理は、まるでSFのように思える技術、夢が現実化するような技術といっていい。小型化も可能でスマフォサイズのシーケンサーも視野に入っているというのだからおどろきだ。
しかし、残念ながら、千ドルにまでなるには、もうしばらくの時間がかかりそうだ。現状では、数万ドル、おおよそ車が一台分というところだろうか。なので、まだ、こういったことに興味がある一部の特殊な金持ちだけが全ゲノム解読を依頼する、という状況だ。
そこまでゲノムを詳細に調べるのではなく、特定の遺伝子について、病気になりやすいとか、先祖はどこからやってきたか、などをしらべる会社がアメリカではいくつも設立され、サービスを開始した。これが二つ目のトピックスである。
ある病気になる確率がわかる、という謳い文句には魅力がある。しかし、正確さに問題があり、どう解釈するか、また、そのデータを元にどういう判断をくだすか、カウンセリングをどうするか、といった問題が山積みである。実際、複数の会社の結果が異なることすらあった。
この本が書かれたのは2010年である。こういったサービスの問題にかなりのページがさかれている。しかし、『日本語版へのエピローグ』によると、以後、時代は急速に動き、アメリカでは、遺伝子から病気の『予測』をおこなうサービスは、規制により、開店休業に近い状態に追い込まれた。
三つ目は、千ドルゲノムが可能になったとき、医学に、そして、医療に、どのような変革がもたらされるか、ということだ。このパートが、この本において最も重要であり、示唆に富んだところである。
全ゲノム解析や、発現している遺伝子についての『エクソーム解析』が、病気の発見、診断や治療に、極めて有用であった例がいくつか示されている。いまはまだ相当な費用がかかるけれど、千ドルで全ゲノム解析ができるようになれば、多くの個人のゲノム情報と病気の関係の解析は、膨大な情報をもたらすことになるかもしれない。
いいことばかりではない。そういった個人のゲノム情報が、新しい差別、『遺伝子差別』を生み出すかもしれない。また、着床前診断にゲノム解析を用いることにより、デザイナーベビーとまではいかないが、『望ましい』遺伝的特徴を持った子供の選別がおこなわれるかもしれない。
あなたが望むと望まないとにかかわらず、千ドルゲノムの時代がやってくることは間違いない。自分のゲノムを解析するか、それをどう使うか。その判断には、相当な知識が必要である。著者は、この分野のトップジャーナルである『ネイチャージェネティクス』の元編集長。内容のすばらしさはいうまでもない。ぜひ、いまからこの本を読んで、来たるべき時代に備えておくことをお勧めしたい。
ゲノム医学について知りたいならこの本。ゲノムの大家コリンズの本を名翻訳家・矢野真千子が訳す。この一冊でゲノム医学の現状がほぼすべてわかる。読まなければ損といっていい一冊だ。
ゲノムとエピジェネティクスを理解できたら盤石。拙著、読んでもらわなければ困るといっていい一冊だ。HONZレビューはこちら。