中央アジアのキルギスという国は、北はカザフスタン、東は新疆ウイグル自治区、南はタジキスタン、西はウズベキスタンに囲まれた場所に位置しており、国土の面積は日本の約半分という小さな国である。
山や湖に囲まれたこの美しい国には、今なお続く信じ難い現実がある。それは仲間を連れた若い男が、嫌がる女性を自宅に連れていき、一族総出で説得し、無理やり結婚させるというもの。キルギス語で「アラ・カチュー(奪って去る)」と呼ばれる「誘拐結婚」である。
その是非以前に衝撃を受けるのは、「慣習」というものが持つ引力の強さであるだろう。各地における村社会の集合的意識は、底なし沼のような側面を持つ。キルギス人の人口の約7割を占めるクルグズ人、その女性の約3割は、誘拐により結婚していると推定されるのだ。
本書は気鋭のフォトジャーナリスト・林典子が、5ヶ月間にわたりキルギスに滞在、約25組に及ぶ女性たちの取材記録を収めた写真集である。実際に誘拐現場に何度か遭遇し、その後の女性たちを追加取材した模様も収められている。
犯罪という観点から考えれば、誘拐という行為自体は、それほど珍しいことでもない。だが、本当に恐ろしいのはその後からである。
これらの写真が堂々と日の目を浴びていることからも分かるように、男性たちに罪の意識はないし、その親族たちも、まるでおめでたいことのように迎え入れる。「犯罪」と「慣習」が結び付いた時、本当の悲劇が始まるのだ。
本来は味方になってくれるはずの女性たちさえもが、自分の説得に回る。その光景を目の当たりにした時の感情とは、いかなるものだろうか。そこには同じ女性だからという線引きは、存在しない。あるのは花婿側と花嫁側という線引きのみである。
中には、拒否し続ける女性達もいる。だが、一度男性の家に入った女性は純潔性を失ったとされ、家族に恥をかかせることになってしまうのだという。
歴史的な経緯を紐解くと、キルギスがソ連の共和国になる以前は、両親が決めた相手と夫婦になる見合い結婚が主流であった。やがてキルギスがソ連の共和国に入り、遊牧生活が定住生活へと変わると、女性も教育を受けるようになり、男女平等の思想が芽生える。
その結果、両親に決められた相手との結婚を拒否した恋人たちが、双方の合意のもとに駆け落ちすることが増えたのである。これが初期のアラ・カチューであり、いわゆる「狂言誘拐」と呼ばれるものにも近い。
だが、誘拐結婚という形式が既成事実化されるにつれ、どこをどうねじ曲がったのか、「合意のある」という部分がすっぽりと抜け落ち、現在のスタイルの誘拐結婚が増加してしまったのだという。男女平等を推進した結果、逆に女性の自由が奪われれいくというのは、なんと皮肉なことなのだろう。
これから好きになっていけばいいかな
私たちの伝統だから
誘拐された女性の多くが、やがてこのような言葉を発し、目の前の現実を受け入れていく。だがそれは、嫁いだ家族の前で幸せそうな嫁を演じているうちに、どれが自分の気持ちなのか判別不能になってしまった様子にも思える。「狂言誘拐」というフィクションそのものを、実際のこととして演じ続けなければならない日常。
それゆえに著者の前だけで見せる、舞台袖のような表情は、本来の自分を取り戻そうとしているようでもあり、胸にズシリとくる。それはレンズの向こう側にいるより多くの人に分かって欲しいというよりも、短期間とはいえ寝食を共にし、この状況を理解してくれそうな唯一人の人へ向けて発したメッセージでもある。
著者も取材中、自分の立ち位置について、何度も考えさせられたという。誘拐結婚を人権侵害の問題提起として紹介すべきか、キルギスに古くから根付く文化紹介とするべきか。また苦しむ女性に対して介入すべきか、否か。もしするならば、どのタイミングで、どこまで介入すべきなのか。
一枚一枚の写真は、そんな複雑さの断片であり、その断片をレイヤーのように重ね合わせることで初めて全体像が見えてくる。特定の一枚の衝撃さのみを強調し、社会的、歴史的文脈から切り離して断罪することは、本質を見失うことにもつながりかねないだろう。
複雑なものを複雑なままに受け止める。まさに写真集というパッケージの為せる技である。
<写真:林典子>
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