向こうから僕の眼の中に「読んでください」と飛び込んでくる本がたまにある。この本もそうだった。不思議な形の志野の装幀に加え、骨董と葛藤という副題を垣間見た瞬間、これはもう読むしかないと観念してしまった。
本書は「古物を愛し、古物に憑かれ、古物に翻弄された6人の『物数寄』たちをめぐる物語である。」つまりフェティシズムを扱った本である。僕は、昔は、本に対してフェティシズムを持っていたが、40代半ばで収容の限界を感じて「所有」から「賃借」へと切り替えたので、それはなくなった。今は、モノは少なければ少ないほどいいと思っているので、残っているのは旅の残欠(博物館の入場券や飲んだワインの空瓶等)ぐらいのものだろうか。ところで、このような本を書いた著者もまた「中年中産階級の」物数寄であって、表紙に使われた志野は、著者が京都で初めて買った「そもそものはじめ(骨董らしい骨董)」なのである。
本書は3部構成となっている。第1部は「生死の往還」というタイトルが付けられ、川端康成と小林秀雄が取り上げられる。「私の生涯はすでに終わった」川端にとって、古美術は、生の世界へつなぎとめる結節点をなしていた。とりわけ「千羽鶴」の分析は興趣をそそる。また、小林の骨董愛好が、戦争という現実の葛藤をその滋養としていた、との指摘は鋭い。著者は、小林の骨董・批評・戦争という三者の関係性を一体のものとして捉えようとしているのである。
第2部は「真贋の此岸」であり、青柳瑞穂が主人公となる。一般に古物には真贋論争がつきものであるが、ここでは戦後最大級の論争の1つとなった「新佐野乾山」が俎上に載せられる。この事件そのものが、またとても面白い。川端は否定派であり小林と瑞穂は当初は肯定派であった。しかし、最終的に瑞穂にとっての理想的な骨董とは、「ホンモノのようでニセモノのような、ニセモノのようでホンモノのような、そんな危なっかしい、あいまいな奴」であったのである。
第3部は「虚実の反転」と題され、安東次男とつげ義春が舞台に上る。安東の疵物愛好は、「完璧でないぶん『想像力』を自由にはばたかせる余地を見る者に与えてくれる」からである。「ミロのヴィーナスばかりではない」のだ。安東にとって骨董とは「不在と現前、欠如と充溢のはざまで揺れ動く何ものかの謂」であり、「虚と実を同じに眺める」まなざしであった。次に、古物商の鑑札を取得した漫画家つげ義春の古物愛好は、単なる趣味や副業ではなく、「自らの存在形態の理想とみなした『蒸発』すなわち虚実の境界領域に身を置くこと」の実践であったのだ。
最後に現代美術家の杉本博司が登場する。そして第1部から第3部までの三部構成が、今一度反復される。「古物という『漂流物』が時の波に洗われつつ姿を現す虚実の汀にまなざしを注ぎ、漂着した『時間の断片』を拾い集め移し(写し)留めておくための『部屋(カメラ)』」が杉本のアートコンプレックスであり、つげが描く浦の苦屋なのである。著者は研究対象として、イタリア絵画をとるか日本のやきものをとるかで迷った後、西洋美術史を専門としたそうである。これからも、双方でこのような面白い著作を世に出してほしい。
出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。
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