数学のノーベル賞と言われる「フィールズ賞」を受賞した天才数学者による、定理を証明するまでの舞台裏と日常――この本の内容を一言でいうと、そうなるだろう。ただ、ほとんどの人が、なんとも不思議で神秘的な瞳を持つ、本の帯の著者写真(こちらでどうぞ)に目を奪われるように思う。
写真では、肩まで下りるワンレングスの漆黒のストレートヘアと、細面の顔に浮かぶ深い黒の瞳が印象的だ。服装はといえば、数学者というよりも、おしゃれな手品師のようで、白いシャツにドレッシーな黒のスーツ。おまけにトレードマークのクモのブローチは、繊細に左胸を飾っている。おでこに手をあてるポーズ自体、なかなかビシッと決められる人は少ないだろう。
1973年生まれのこのフランス人が、2010年のフィールズ賞受賞者で本の著者、セドリック・ヴィラーニだ。弱冠28歳でリヨン高等師範学校数学教授となり、ポアンカレ賞など、とにかくすごい数学賞を総なめにした後、2010年に「非線形ランダウ減衰とボルツマン方程式の平衡状態への収束に関する証明」によりフィールズ賞を受賞した。現在はリヨン第1大学数学教授、ポアンカレ研究所所長を勤める。数学界の大スターなのだ。
フィールズ賞については、ニュースで聞いたことのある人もいるだろう。ノーベル賞に数学分野はないため、影響力からいっても、この賞が数学の頂点と言っても過言ではなさそうだが、4年に一度だけ、しかも40歳以下の若手に授賞されることでもユニークな賞だ。おもしろいことにフィールズ賞受賞者の国籍ランキングの1位はアメリカの12人。次いで多いのが、フランスの11人。賞がすべてではないにしても、実際に、数学の世界では、アメリカとフランスが現在最先端を走っているとのこと。意外な分野でフランス勢は活躍している。
付け焼刃で調べた数学世界情報をまとめておくと、第二次世界大戦までは、ヒルベルトなどの活躍でドイツのゲッティンゲンが中心だったが、ナチス政権を避け、戦後アメリカのプリンストン大学などに頭脳が移っていったのが趨勢だそうな。一方で、フランスは歴史的にもパスカル、フェルマー、ポアンカレ、フーリエ、ブルバキ(個人ではなくグループだが)と綺羅星のごとく偉大な数学者を生んでおり、現在も研究環境は世界トップレベルにある。たとえば、2007年にはパリ数理科学財団なる組織も創立され、加入した1000人以上が9つの研究所とともに活躍しているそうだ。要するに、世界の数学のメッカはフランスで、その頂点の一角を担うのがヴィラーニなのだ。つい深堀りしてしまったが、こういう天才を数多く生む“場”の話は、面白くてわくわくする。
さて、この本。頁を開いた瞬間に飛び込んでくる横書きの文章と、何箇所かに挿入される数式のわからなさには、慄いて頁を閉じる人も多いと思う。文章は普通に読めてわかりやすいのだが、数式については、ちんぷんかんぷん。このままじゃレビューを書けない! そう焦って知り合いの数学者に意味を問うたところ、「普通の人じゃわかるわけないレベル」とのこと。確かに、この本は、フィールズ賞の受賞理由ともなった定理を考え抜く“過程”を描いたものだ。超最先端の数学がここにはあるわけで、高校時代に冷温停止した数学センスで読み解けるはずもない。安心していいのだ。
数学に関する部分を分担翻訳された池田思朗さんも、「本書に書かれている試行錯誤の過程の多くが、最終的に出版された論文には書かれていない」とあとがきで書かれており、その点確認に苦労されたとのことだ。そう、しつこいようだが、素人にわかるはずもないのだ。数式は「挿絵」とでも思っておけばいいのではないだろうか。私はそう思うことにした。だって、数式を嫌って読まずに捨てるには、あまりにももったいない! 逆に、普通ならかっこよく決まった数式だけを公開するものだろう。この本のユニークさは、ありのままの素の本物を、ガツンを見せているところにあるのだ。
日記形式をとって、時系列的に証明を進めていくさまは、もう青春物語。飽きさせない。
ぐちゃぐちゃと書いたメモを眺める。今はじっと考えるときだ。
うまくいくぞ! たぶん……
うまくいくぞ!! 間違いない!
落ち込むわ、弱音をはくわ、叫びながら喜ぶわ、数学にかける思いがダイレクトに伝わってきて、がんばれと言いたくなる。私が好きなのは、ひらめきに関するこの部分。
数学の神様から電話がかかってきて、声が頭の中で響き渡るといわれるあの噂の直通電話――だが、正直言ってそんなことはめったにないのだが!
私は、以前その「直通電話」を受けたときのことを思い出していた。……。(160頁)
同業の数学者とのやりとりも、たまらない。あこがれのジョン・ナッシュ(伝記『ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡』は、ヴィラーニもお気に入りとのこと。とても面白いのでお勧め)と会ったときに怖気づいて話しかけられなかったり、夜の研究所内ウォーキングで出くわした、まったく別の分野の数学者と立ち話をして考え込んだり、若手の数学者に突然話しかけられて、一緒に散歩しながら相談に乗ったり。彼の数学における成功が先人あってのものだということや、若手に対して学ぶ場を作ろうとする姿勢が、そこには垣間見えるのだった。
詩や音楽について、好きなものを具体的に並べて語り尽くすし、美しいものを愛する心を伝える箇所も多い。しかも、手塚治虫や宮崎駿がお気に入り。『風の谷のナウシカ』でペジテ軍と対峙するナウシカのように、という喩えを目にしたときには笑ってしまった。日本語を勉強しているという妻に、『DEATH NOTE』をお勧めしたり、アニメ『ベルサイユのばら』を家族で見たり、「解析」は日本語では「懐石」を表すんだよ、と嬉々として書いていたり、と、ちりばめられた日本贔屓ぶりには、日本人としてはつい嬉しくなるのであった(そんな彼は、この5月に来日するそうだ)。
数式はわからなくても、数学を愛する心がわかる一冊。
突き抜けている人は、魅力的だ。