「日本を知るには、明治維新前の科学を見るのがおもしろい。」雪の科学者、中谷宇吉郎が自身のエッセイの中で語っていた。日本の科学は、明治以後になって輸入され、模倣されたものが多い。だから中谷宇吉郎は、明治維新前の日本の科学を解釈し、独創性ある隠れた科学を堀り起こした。特に江戸時代は、自然科学に目覚め、数学を生活の中に取り入れ、医療も格段に発展した時期でもある。本書は、この中谷博士の「日本の心」を探求する姿勢を踏襲するものではないだろうか。
「江戸の天文暦学」「江戸の測量術」「江戸の医学」「江戸の数学・和算」「江戸を彩る理系人たち」という5つの章から構成され、天文暦学者・渋川晴海にはじまり、測量家・伊能忠敬、北方調査団・間宮林蔵、医師・華岡青州、和算家・関孝和、本草学者・平賀源内など、様々な科学者の経歴や功績を追いかけていく。読みやすさにもこだわり、図版が多数挿入されている点も嬉しいところだ。三極通儀、顕微鏡、月面観測図、弓曳童子、枕時計、茶運び人形など、眺めているだけでも楽しくなる。
日本では、平安時代に中国から導入された宣明歴が800年以上もの間、使用されていた。日本の天文や暦は呪術的色彩が強く、特に日食は厄災をもたらす不吉なものとされ、日食の的中率が朝廷の公務も左右した。しかし、江戸時代になると、暦と実際の時間のずれが目立ち始め、日食の予測も外れるようになっていたという。そこで日本独自の暦を考案したのが、渋川晴海である。そして貞享2年(1685)1月1日に貞享歴に改められたのだ。
天文暦学者と和算家は深く結びついている。たとえば天球上の緯度と経度にあたる黄緯と黄経を割り出すためには球面三角法という手法が用いられており、また、時間経過との誤差を解決するために1000年ごとに0.0002日減少させる祭日消日法という計算方法も使われていた。このように日本独自の科学が花開いたわけだが、江戸時代の科学は学者間の「学」というより、庶民の「芸」として生活の中に浸透していたのが面白い。真理探究という行為よりも、いかに日常生活に役立つか、という「実学」として発展した学問であったのだ。
たとえば、第4章の「和算」について見てみよう。和算とは、日本独自の数学である。室町時代、中国とのあいだでいわゆる勘合貿易が開始されると、商取引を円滑におこなうために、そろばんが普及し、江戸時代の一般市民にとって、そろばんは必需品になっていた。西洋では、数学を「神が創ったこの世界の成り立ちや、世界を成り立たせている原理を理解するための道筋のひとつ」と認識されていた一方、日本では「問題を作っては答えるゲーム」として庶民に親しまれていたのである。
生活必需品と同時に、娯楽の一つ。しかし、この娯楽を侮ってはいけない。たとえば、円周率を導き出した、和算家・関孝和を挙げてみる。円周率を導く課程で微積分を用いるのだが、それは西洋から輸入された知識だ。微積分が日本に導入される以前、彼は円周率を導くため必要な技法を独自で編み出しながら、問題を解いていったのだという。この他にも、関孝和が独自で考案した数学としては、代数法や行列法もある。一つ一つの問題について、自分のやり方を考えてみる。この芸としての科学が、日常生活を楽しくさせるには有効であった。
本書にはここには書き切れないほどの、世界初の発明が詰まっている。一つ一つの発明は、体系化された学問の集大成というよりも、日々の生活の知恵が共有された、集積の賜物なのである。川が氾濫するならば、一般的な河川学の知識ではなく、その川の特徴をよく知ること。きっと、日本の地形と風土、人間の気性もそこにはぎゅっと詰まっていることだろう。最後に、冒頭に登場した中谷宇吉郎の言葉を紹介して終わりたい。
毎日毎日の小さいながら新しいことの連続が、人生である。そういう一つ一つの小さい問題について、いちいち物理学の体系から演繹した知識で、とこうとしても、それは無理である。というよりも、つまらないことである。それよりもその問題の範囲内で、自分のささやかな物理学をつくって、それでといた方が良い。