12万人。2006年から6年続いたカルデロン政権下、メキシコ麻薬戦争によって失われた命の数である。異常なのは犠牲者の数だけではない。用いられる武器、残虐性も想像を超えている。けん銃やマシンガンは当たり前、手榴弾も決して珍しくはないという。メキシコが直面しているのは、マフィアたちの抗争や縄張り争いなどという言葉では片付けられない、“戦争”なのだ。
敵対集団の構成員や賄賂に応じない警察官を誘拐し、拷問、暴行の末に首を切り落として街中にさらすような、目を背けたくなる残虐行為はエスカレートし続けている。復讐はさらなる復讐を生み、1兆ドルを超えるGDPを誇る先進国メキシコのイメージは、すっかり麻薬と犯罪で塗り替えられてしまった。ある推計では、今では麻薬はメキシコに300億ドルもの外貨をもたらし、石油に続く輸出品となっているというのだから、無理もない。
本書は、日本で報じられることの少ないメキシコの現状を、その歴史的背景から明らかにしていく。なぜ民主主義への転換はメキシコ麻薬戦争を拡大させたのか、マフィアたちはどのようにして警察・軍を上回るほどの暴力を手にしたのか、麻薬戦争を終わらせることはできるのか。著者は10年に渡って、麻薬の源流地であるメキシコ山奥を駆け回りながら、麻薬王の弁護士、アメリカ人潜入捜査官、そしてマフィアへ直接取材を行っており、現場の匂いすら感じられるほどの臨場感である。
メキシコを襲う惨劇は、その描写を活字で追うだけでも背筋が凍る。しかし、事件の多くはメキシコ国内でもあまり話題にならないという。例えば、著者があるレストランでの警察高官射殺事件にかけつけると、1時間と経たないうちに死体は運び出され、営業が再開されたという。432発の銃弾によって5人の警官が殺されたときも、地元紙の3面に小さく書かれただけ。事件の頻発に人々の感覚は麻痺し始めている。麻薬戦争は広く、深くメキシコ社会を蝕んでいる。
マフィアにとっても、「殺人」はありふれた手段となっている。彼らにとっての殺人がどれほど安易なものかは、殺し屋に支払われる殺人の報酬がたった1,000ペソ(約85ドル)であることからもうかがえる。1人あたりGDPが15,000ドルに迫ろうかというメキシコではあるが、その格差は凄まじく、マフィアからの1,000ペソに飛びつく少年は掃いて捨てるほどいるという。マフィアの一員として多くの襲撃に加わり、イラクやアフガニスタンのどんな兵士よりも多くの死体を見たという17歳の元殺し屋フリオールの言葉は、彼が生きてきた17年の過酷さを物語っている。
銃撃戦のなかにいるとアドレナリン全開だよ。死者が出ても何も感じない。毎日殺し合いがある。十人死ぬときもあれば十三人死ぬときもある。いまではそれが普通なんだ。
なぜ、これほどまでに事態は悪化してしまったのか。著者はメキシコ建国にまでさかのぼる。メキシコ山岳地帯でケシ栽培が始まったのは1860年代。イギリスによってアヘン漬けにされた中国からの移民が、アヘンとケシの種を太平洋を越えて南米へ持ち込んだという。広大な米墨国境を麻薬が乗り越えるのは難しいことではなく、20世紀初頭にはアメリカへの麻薬密輸は一大ビジネスへと成長していき、1980年にはアメリカ国内の麻薬市場は1,000億ドルを超えた。
もちろん、各国政府も麻薬の蔓延に手を打たなかったわけではない。1970年代にニクソン米大統領は麻薬取締局を創設し、メキシコ政府と協力して「コンドル作戦」を実行に移した。1万人の兵士の投入やベトナム戦争で使用された枯れ葉剤をケシ畑に散布を行ったこの作戦は成功し、メキシコ産の麻薬は大きな打撃を受ける。評判が地に落ちたメキシコ産麻薬に代わって、次なる産地として名を上げたのがコロンビア。麻薬を求める人々がいる限り、麻薬が巨大な富を生む限り、生産地への攻撃は新たな生産地を生み続ける。事実、現在のメキシコでの事態の悪化はコロンビア情勢の改善と明確にリンクしている。アメリカ各州で進められている大麻合法化は、「供給」でなく「需要」を潰そうという取り組みでもある。
メキシコ麻薬戦争を語るうえで欠かすことのできないのが、麻薬密輸組織「カルテル」の存在だ。メキシコにはその凶暴さで名を轟かせる「セタス」を始め、いくつかのカルテルが存在するが、それは1枚岩の組織というよりギャング達の連合体のようなものだという。その存在のとらえ難さを、大物ボスの弁護士は次のように表現している。
カルテルなんてものは存在しない。実際には個々の麻薬密輸人がいるだけだ。彼らは仕事を一緒にすることもあるししないときもある。アメリカの当局者が立件しやすくするために彼らをカルテルと呼んでいるだけだ。
2011年時点でメキシコには、数千人規模の武装集団を抱える主なカルテルが7つあった。カルテルの武装集団が軍と同等に渡り合えるのは、この武装集団自身が元メキシコ軍人を中心に構成されており、アメリカから潤沢に武器を密輸入しているからだ。カルテルには元メキシコ軍のエリートが多数おり、前述のセタスはグアテマラ内戦時に活躍した陸軍特殊部隊「カイビル」のメンバーまで採用している。アメリカはメキシコ軍の強化に協力しているというが、訓練された彼らが寝返れば、カルテルはより強力なものとなる。警察や軍などの国家権力とカルテルの関係もまた、複雑に絡み合っている。
『ゴッドファーザー』や『スカーフェイス』で描かれる狂気の世界すら容易に飛び越える現実に圧倒される。現実の抗争をリアルに描けば、過激すぎてヒット映画にはならないだろうと著者はいう。本書は、CIAとカルテルの秘密の関係、マフィア文化や彼らが信仰する宗教についての記述も深く、読みどころが非常に多い。ただし、本書の奥付には「初版第1刷2000部」とあるので、今後入手が困難になるかもしれない。メキシコで何が起きているのか、その全容に迫りたい方は今すぐ本書を購入しておくことをおススメする。