これだけ本好きが集まり、朝会とレビューのため、鵜の目鷹の目で書店を渉猟しているにもかかわらず、HONZのメンバーでも見落とす本はあるものなのだ。ある日、時間つぶしのつもりで入ったある書店で、棚ざしになっている本書を見つけた。何の変哲もない白い装丁で目を引くものではない。しかし著者の名前に見覚えがあった。木下直之……あ、『股間若衆』の先生だ!
奥付を見ると昨年11月の出版である。
日清戦争の連戦連勝に沸く東京で、明治27年12月9日に上野公園を会場に「日清戦争祝捷大会」が行われた。明治国家最初の国際戦争は、いかに国民の心をひとつにし、どのように盛り上がったのか。上野の大学に学び、現在、本郷の大学に勤める著者は、ひとつこの目でその祭りを見てみようと思い立つ。ラベンダーの匂いを嗅いだわけではないけれど、120年前へタイムスリップだ。
目覚めたのは不忍池近くにある清水堂。どうやら1日早い8日の東京に着いてしまった。目の前で職人たちが船の模型を組んでいる。清国海軍の定遠号と致遠号という軍艦だ。祭のフィナーレ、夕方に不忍池で行われる模擬海戦の準備らしい。定遠号は40メートル、致遠号はその半分ぐらいの巨大なものだ。作っているのは本郷団子坂の菊細工で名高い人形師山本福松の配下。季節柄、菊人形は終わったが、このシーズンは日清戦争もので稼いでいたに違いない。
木下先生、この時代に来るために大いに調査したようだ。120年後の世界で調べれば、何がどこに残っているか概ねわかるものだ。幸い江戸、東京の地図はたくさん残っている。そこでぶらぶらと見物を決め込んだ。銅像で有名な上野公園もこの時代はまだ一つも建っていない。銅像建築を却下する理由は以下のようなものだった。
公園とはその風致をひとびとが楽しむ場所である。いったん銅像建築を許せば、同様の希望はつぎつぎと寄せられ、公園はまるで墓地のようになってしまう
なんと真っ当な。しかし西郷隆盛の銅像はこのわずか4年後に実現する。薩長政権に関わっていればそれは全く別ということか。
上野広小路では遠く浅草十二階の姿が見え、日本パノラマ館の大きな丸屋根も見える。下谷二長町の市村座で川上音二郎の「日清戦争戦地見聞日記」という芝居を見てから大パノラマ館には入れば、360度の壁面に描かれたアメリカ南北戦争「ヴィックスバーグの戦」の光景に圧倒される。浅草公園で「奥山閣」をひやかし、慶応元年に焼失したままの雷門のあとを抜け、神田川を渡って馬喰町で宿をとる。
木村荘八『定稿 両国界隈』をガイドに木村の生家「いろは牛肉店」で牛鍋を食す。浜町のあちこちにある楊弓屋は女と遊ぶ店のようだが、どうやら先生は寄っていない。
さて祝捷大会の当日は、日比谷公園を朝7時半に集合して行進が始まる。およそ4万人が集まったというこの祭り、二重橋前で万歳三唱し丸の内を抜け大名庭園の名残りを眺めつつ日本橋へ。白木屋では店内に金屏風をめぐらし、日清戦争の英雄、原田重吉の奮闘を縮緬細工で作った人形が鎮座している。
町は提灯がめぐらされ、大きな山車に乗った龍の首が迫ってきた。清国帝王を模した龍の切首は日本勝利に沸く国民に喜ばれ、押し立てられた大きな提灯のまわりには清国兵の首を模した小さな提灯がたくさんついている。弁髪部分が竿に括られ揺れている。「分捕石鹸」という清国兵の頭の形の石鹸も飛ぶように売れ、悲しい顔した中国人の首を風船にしたおもちゃも喝采を浴びている。国威高揚、戦争の間なんてこんなものか、と嫌な話題だと思うのは120年後の世界の住人だからだろう。
さていよいよ上野公園だ。ものすごい人ごみで掏摸の被害がひどい。金を払った人だけが入れる場所も、あまりの人の多さに引き倒され、なし崩しにただで入場できるようになってしまった。産気づくもの、不忍池に落ちる者、下駄や草履が脱げて無くなる者、トイレがないのでそこらで用を足し、川のようになってしまったところもある。女性は困って引き返した人が多かったとか。
皇太子が臨席し、さまざまな催し物が行われ、最後は昨日作っていた船の模擬海戦。乗っているのは今の広告代理店、広目屋が集めた人夫たち。夕暮れ迫る中で行われた合戦は、花火をふんだんに使った派手なものだった。写真も残っているが、それはそれは盛大なものだったろう。
実際に日清戦争が終わるのは翌年の3月。国の事情など知らない民衆たちが、ともかく目出度いと祝捷大会を楽しんだ様子がよくわかる。明治維新の記憶も新しく、戊辰戦争で上野に死体がごろごろ転がった様子を見ていた者もまだ多かっただろう。それが清国と戦争し勝っちまうんだからすげえじゃないか、と浮かれる声が聞こえてくるようだ
しかしこの戦争をこう言った者もいる。
日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないヂやないか。たとへ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からぬに限る。(中略)
日本人もあまり戦争に勝ったなどと威張って居ると、あとで大変な目にあふヨ。剣や鉄砲の戦争に勝っても、経済上の戦争に負けると、国は仕方がなくなるヨ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人は、とても支那人には及ばないだらうと思ふと、おれはひそかに心配するヨ。
氷川清話に収録されたこの言葉。もちろん勝海舟はこの日、上野に足を運ばなかった。
HONZでも大評判だった一冊。新井文月のレビューはこちら