装丁の写真に写る少女は輝く大きな瞳と、笑った口元からのぞく白い歯がとても魅力的だ。その瞳、その笑顔はまだ、自らが何者かになれるという確信と希望に満ちているように感じられる。自らの立ち位置とその存在の小ささを現実という絶望から叩きつけられたことのない、幼き者だけが持つことの許される独特な輝きに満たされている。だが、彼女が顔を出している建物は、さびたトタンと棒切れを打ち付けただけの窓が存在する粗末な小屋だ。
このノンフィクション作品はインド、ムンバイの空港近くにあるアンナワディというスラムに生きる、フセイン家とワギカー家の人々を中心にして、グローバル経済の中で広がる格差、チャンスの不平等、貧困、そして、政治、行政機構の腐敗という問題を私たちに見せてくれる。それも著者のキャサリン・ブーという存在をまったく感じさせることなく、小説でも読むような感覚で。
訳者の説明によると、このような手法は「イマ-ジョン・ジャーナリズム」という手法であるという。徹底した取材と取材対象にどこまでも寄り添うことにより、彼らを深く理解し彼らの目線で世界を見つめるというもののようだ。
話の軸はアンナワディで暮らす、ゴミの買い取り業を営むムスリムのフセイン家と、スラムの顔役をめざす、主婦のいるワギカー家の人々の人生だ。この家族はその豊かさという点でスラムの他の住民より、ほんのわずかに抜き出ている。富を生み出したのが一家の大黒柱ではなく、主婦であるアシャと息子であるアブドゥルという点でも共通している。そして、急速に豊かになっていく祖国で富のおこぼれに預かり、スラムから中流にランクアップしようという野心も同じだ。ただし、選んだ道は異なる。
フセイン家は長男のアブドゥルという少年の勤勉さとゴミの仕分けの能力により、多くの家財道具とムンバイ郊外に土地を手に入れるための手付金を手にするほど、成功していた。
ワギカー家では、スラムの顔役の地位を手に入れたアシャという主婦が、右翼政党の政治家、腐敗した警察、役人などの人脈を使い、政府の貧困対策の助成金を流用し金と力を手に入れる。己の才覚を武器に中流階級をめざし、暗躍する。彼女の娘、マンジュはアンナワディで初めて大学に進学した女性になる。
フセイン家は内向的で他者との関わりを避ける、長男アブドゥルの働きで急速に富を蓄えていく。だがそれは、ごくわずかなパイを奪い合うようにして生きるスラムの人々にとって羨望と嫉妬の的になることでもある。彼らは彼らなりに細心の注意を払い、周りに気を配っていた。特にムスリムというインドではマイノリティーに属する彼らにとってそれは必要な事である。
しかし、同じムスリムの隣家の主婦で、障がい者のファティマの嫉妬と怒りを買ってしまう。些細なきっかけで普段は抑えられていた嫉妬の炎が燃え上がったとき、ファティマは自らに灯油をかけ焼身自殺をはかる。病院に担ぎ込まれた彼女はフセイン家の人々に酷い暴行を受け、耐えられずに焼身自殺に及んだと嘘の供述を残し、この世を去る。
貧しい人々は社会にしいたげられた美しい人々として、ドラマや小説などでは描かれることがある。しかし、民主的で自由度の高い社会では、富める者より、貧しき者の方がはるかに嫉妬深く、そして階級というものに敏感なのかもしれない。誰しもが自分を最底辺と認識しつつも、人はその現実を受け入れるほど強い心は持ち合わせていない。自らの貧困を富める者の責任にして憎み、より貧しく力の弱い物をしいたげる事により自分が最底辺でないと思い込もうとする。そんな人間のエゴがむきだしにされた世界を本書によって垣間見る。
スラムから抜け出すために後一歩というところまでこぎつけていたフセイン家は、稼ぎ頭のアブドゥル、娘のキカシャン、父のカラムが警察に逮捕されてしまう。一家の破滅の始まりだ。恐ろしいまでに腐敗した行政と司法に食い物にされ続けるフセイン家。警官、行政官、医師、あらゆる人々がフセイン家から金を搾り取ろうとする。すべての物事が賄賂により進む社会の弊害を、フセイン家が被る試練を通して嫌というほど見せつけられる。
ワギカー家、フセイン家の人々と親交があった、多くの者があまりにあっけなく、命を失うことには絶句した。親の決めた結婚から自由になるために殺鼠剤を飲んで死んだ少女。車に挽かれ何時間も助けを求めながら、道行く人々に無視され死んでいったゴミ拾いの男。ギャングに殺された少年とそれを目撃したために、自殺するしか道がなくなった少年。まるでゴミ拾いを生業にする彼らの人生そのものが、ゴミであるとでもいうかのように、あまりにも彼らの命は軽く小さい。
アブドゥルや、ゴミ拾いの少年スニールは、いつかは自分が何者かになれる日が来ると信じていた。つらい目にあっても、人々から蔑まされても、必ずチャンスは巡ってくると。
どんなに辛く惨めな人生でも、これはかけがえのない自分の人生なのだ。どんなに汚れた水の中にいても、自分は透き通る氷のような存在でいるのだ、と心に決めて。
しかし、やがて彼らは自分が何者でもないことを思い知る。結局は大勢の貧しく、スキルも能力も持たない人々の一人なのだという結論にいたる。いかに清く透き通った氷でいようと願っても、やがて汚水の中に融けていくのだと。それが人生なのだと。
だが、果たして本当にそうなのだろうか。著者もあとがきで語っているが、彼らは決して道徳的に劣った人々ではない。あろうことなら、道徳的に生きたいと強く思っている。そして、本書を通して彼らの思考を読む限り、多くの少年、女性たちは優れた知性の持ち主であることがわかる。
誰かがこの国の機会の平等を奪いされなければ、彼らは何者かになれたかもしれない。腐敗した役人や政治家が、貧困対策に捻出される資金をかすめ取らなければ、彼らの精神の氷は汚水に融け混じる事はなかったのではないか。
グローバル市場主義経済は必ずしも絶対悪ではない。実際に発展途上国の住民の生活水準は少しずつ、不平等であっても向上している。だが、そこから置き去りにされた人々から目を背けてはならない。これは、何者かになろうと足掻き、何者にもなれなかった貧しき人々の声なき魂の震えを、世界中に届ける素晴らしいノンフィクションだ。
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